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ことりの上手ななかせかた

 沙羅さんからは、何やかんやで三枚の絆創膏を頂いた。

 第4話 沙羅さんはみんなの人気者

 お陰でその日、入浴した後に再びあの絆創膏を貼ることができ、私は密かに喜びに浸っていた。まるで初めてアクセサリーを身に付けた子どもみたいに。
 絆創膏という狭いキャンバスに描かれた夜景は本当に美しく、手の甲を見る度に私は完全に浮かれていた。
「あれ? 小鳥さんの付けてるのって、沙羅さんがデザインした絆創膏じゃないですか?」
 だからこそ、私の日常を守らんとするガードは、今の今まで完全に緩みきっていたのだ。
「え、なになに、あの麗しの沙羅さんがどうしたって?」
「小鳥さんが手に付けてる絆創膏ですよー。可愛いデザインだな~って思ってたんですけど。よく見たらそれ、沙羅さんがデザインしたって話題になっていたものとそっくりです!」
「え。小鳥ちゃんどこか怪我したの?」
「っていうか、沙羅さんって沙羅さん? CG部所属の麗しの女神?」
 総務部内には、「沙羅さん」という言葉が瞬く間に蔓延していった。弾んでいる会話の中で、私は全身にじとりと冷や汗が滲んでくる。
 ど……ど……どうしようぅぅぅう……!?
 まさか絆創膏ひとつで沙羅さん音頭が巻き起こるとは思ってもみなかった。自分の失態を後悔しながら、私はひとまず逃げようと静かに腰を上げる。
「ちょうどお出掛けでしたか、小鳥さん」
「ひえっ!?」
 まるでタイミングを計ったかのように、微笑みを讃えた沙羅さんがそこには居た。
 沙羅さん、せめて廊下に出たところで声をかけてほしかったです……!
 唐突に現れた話の渦中の女神に、総務部は一斉に桃色の小花が散りばめられた。
「ど、どうかしましたか、沙羅さん……?」
「用が無いと、会いに来てはいけませんか」
「そ、そういうわけではありませんっっ、そうじゃないんですが……!」
「はは。冗談ですよ」
 小声で大声を上げる私に、沙羅さんはくすくすと楽しげに笑みをこぼす。どうやら目の前の女神様は、私を慌てさせるのが大層お気に召したみたいだ。
 内心半ベソになっている私に気付くことなく、沙羅さんは「すみません」と短く謝ってから話を進めた。
「昨日集めていただいた資料のことです。ありがとうございました」
「あ……」
 昨日の夜に、半ば強引に手渡した資料。わざわざお礼に来てくれたのか。
「いいえ! あんなものでお役に立てれば!」
「あんなものなんて。柊チーフも絶賛していましたよ」
「え……柊チーフ、ですか?」
「小鳥さんは、印刷室で企画書を拾ったほんの一瞬で、必要な資料を把握したんでしょう」
「あ、は、はい。でもそれは」
「普通、あそこまで的確に取捨選択の判断は出来ません」
 困惑を宿した私の瞳に、沙羅さんは優しく微笑みかける。
「柊チーフが、貴女はもっと自信を持って良い人だと言っていました。俺もそう思いますよ。小鳥さん」
 ごく自然に私の頭をひと撫ですると、沙羅さんはそのまま自分の部署へと戻っていった。
 呆気にとられていた私だったが、撫でられた頭をそっと自分の手でなぞり、今の言葉をかみしめる。
 私が、もっと自信を? それはまた、とてもとても難しいことだ。
 でも、そういえば同じようなことを、よく柚にも言われている。
 私からすると、柚や沙羅さんが目の前にいながら自信を持つなんておこがましいにも程があるというものだ。
「こ・と・り・ちゃ・ん???」
 まずい。忘れてた。囲まれた。
 いつもは優しい先輩に後輩にチーフまで、今この時点で私の味方はいないらしい。
 せっかく逃亡するために立ち上がったはずの私は、総務部の全員にまんまと四方八方を取り囲まれていた。

「んで? 総務部総員の追撃から逃れるべく、ここまで逃げてきたってわけ?」
「ごめんなさいすみません申し訳ございません……!」
 情けない顔ですがりつく私に、柚はやれやれと肩をすくめた。幸い柚も、仕事がひと段落した時分だったらしい。柚が所属する第二グラフィック部に隣接するベンチで、私はひとまず匿ってもらうことにした。
「まあねぇ。沙羅さんに浮いた話があるって聞いたら、そりゃみんなぐいぐい来るよねー」
 ご馳走したコーヒーを口にしながら、柚が頷く。
「沙羅さんはね。あれでいて浮いた話なんて今までひとつも上がったことがないのよ。誰かと付き合ってるとか、彼女がいるとか、彼氏がいるとか!」
 最後のは本来要らない一文だけど、私もあえて指摘はしない。
「質問責めから逃げてきたって言ってたけどさ。みんなには何て説明したのよ?」
「そのままだよ? 困っているところを助けてもらって、それがきっかけで色々と話をするようになりましたって」
「なるほど。まあ、嘘ではないってやつだね」
「それでも沙羅さんと付き合ってるのかって、五回くらい聞かれたけどね……」
 さすがに同情を感じたのか、柚は「その内収まるって」と元気付けてくれる。
 やっぱり、女神様と友達になるのは予想以上に大変なことなのかもしれない。
 私はふと、右手の甲に視線を留める。沙羅さんから受け取った絆創膏の綺麗な夜景が、今ではちくりと胸に刺さった。

 ふと鼻をくすぐった、大人なフローラルブーケの香り。入れ違いにすれ違った女の人を、私は無意識に振り返っていた。
 編集部所属の女性は、いつも多忙でありながら輝いている。二十代ながら活躍する戸塚さんをはじめ、他のスタッフの女性もいつも自信に満ちあふれているのがわかる。
 私も、そうあるべきなのかな。
 まるで想像できない自分の姿を思いながら、化粧室の扉を開く。そして次の瞬間飛び込んできた光景に、思わず目を剥いた。
「戸塚さん!」
 洗面台に垂れかかるように顔を伏せる人物が、遠い日の母の姿に強く重なった。

「ごめんねぇ。ちょっと目眩がきちゃって」
「そんなことはいいんです! 今はとにかく、しっかり休んで下さい……!」
 以前自分が運ばれた休憩室に、こんな短いスパンで訪れるとは思わなかった。それも、自分が介抱する側で。
「戸塚さん、最近会社に連泊してたって聞きましたよ。昨日は何時に眠りましたか」
「五時?」
「それもう明け方じゃないですか!?」
 まさか私に怒鳴られるとは思っていなかったらしい。きょとんと目を丸くした戸塚さんに、言葉を続けた。
「戸塚さん、明後日から新婚旅行ですよね? 今日はもう早退して下さい。明日も有給を使って、体調を整えてから旅行にいかないと」
「でも、仕事がまだ終わってないから」
「駄目です。もう、編集部のチーフに話は付けました!」
「へ?」と目を瞬かせる戸塚さんに、私はびしっと人差し指を差し出す。
「戸塚さんは、帰る前に申し送りだけして下さい。あとはゆっくり休んで体調整えて、元気に新婚旅行に向かえばオッケーです!」
「でも、締め切り間近な案件もあるし」
「だから申し送りを! 今すぐに!」
 体力を消耗している人相手に、こんな勢いで話をするものではなのはわかっている。でも今は、背に腹は代えられない。
 指輪がきらりと光る薬指は、幸せの証だ。
「後の仕事はッ、私が責任を持って引き継ぎますから……!」

 戸塚さんは、新婚旅行前にどうやら相当無理をしていたらしい。
「そういえば第二編集部の戸塚さん、昨日社内で倒れたんだって? 旅行前なのに大丈夫なのかな」
 総務部の先輩が何気なくこぼした話題に、周囲がにわかに反応する。好奇の波が広がる前に、私は精一杯さりげなく口を開いた。
「昨日病院に行って、ひとまず点滴を打ってもらったみたいです。今日は大事を取って休むと言っていたので、旅行は大丈夫かと」
「そっか! せっかくの新婚旅行だもんね!」
「確かハワイでしたっけ。いいなぁ~私も絶対新婚旅行はハワイに行きたいっ!」
「その前に相手探しだけどねぇ~?」
 あははは、と快活な先輩の笑い声がまるで合図のように、今日の朝礼が始まる。
 良かった。話のせき止めに成功したことに、私はほっと息をついた。「あーっ、そういえば!」
「私昨日は外回りで詳しく聞けなかったんですけど! 小鳥さんと沙羅さんがお付き合いしてるって噂、本当なんですかぁ!?」
「だから! それは誤解だってば!」
 ……どうやら、こっち側の苦労はいまだ継続中のようだ。

 昨日は何度も謝る戸塚さんを制して、引継を受けること小一時間。お陰で戸塚さん不在中に進めておく仕事はあらかた把握できた。
(何かあったらすぐに連絡ちょうだいね? あっちでもメールも電話も繋がるようにしてあるから!)
「よーし。まずはこの記事の最終確認から」
 目の前に細かに書き留めた申し送りメモを俯瞰して、よしっと気合いを込めた。
 手持ちの案件が数えるほどしかなかった私は、その日以降戸塚さんの担当していた案件をこなすことで社内での一日を過ごしていく。
 ほとんどがデスクワークで対応できる内容だ。極力こちらに負担を掛けないようにいう、戸塚さんの性格の現れだろう。
「お疲れさまー……って、あれ? 小鳥、アンタまだ残ってるの?」
「柚」
 帰宅姿の柚が目を丸くしながら私の席に寄って来る。
 夜もとっぷり暮れた今の時間帯は、総務部のみんなはもうすでに帰宅していた。私の机の端に積まれた資料に、柚は顔をしかめる。
「それ、全部アンタの案件? その資料の山」
「へへ、まあね」
 へらりと答える私に、柚はますます眉間にしわを寄せる。
「まさかとは思うけど……それ、沙羅さんのことで受けてる嫌がらせとかじゃないよね?」
「へ?」
「ほら。アンタが沙羅さんと付き合ってるって聞きつけた性悪女が、アンタを妬んで仕向けた嫌がらせとかさ」
 声を潜めながらも問いかけてくるその声色は本物だ。柚の想像力豊かな思考に呆気に取られながらも、その気遣いに笑みがこぼれた。
「違う違う。これ、今週いっぱい旅行休暇中の戸塚さんの案件なの。ちょうど私も手が空いてるし、出来る限り進めておこうと思って」
 実際、最初こそ追求された沙羅さんとのことだって、みんな本気で詰め寄ってきているわけではないのだ。客観的に見たって沙羅さんと私の間に何かあるなんて考えられない。
 当然、追求された時はきちんと説明したし、それでみんなは笑いながら納得してくれる。
「でもまぁ、あまり無理しないようにね。双子の翼兄さんも心配するだろうし」
「ははっ。あれは自分のご飯の心配しかしないよ。ありがとね」
「いや、あれはなかなかのシスコンだと思ってるよ。私は」
 会社を後にする柚に、小さく手を振った。
「今日は……すこーし曇り空か」
 小休憩がてら、オフィスの窓を覗き込む。
 そして誰もいないとわかっている周囲を見渡すと、私はスマホケースから取り出した絆創膏に微笑みかけた。
 あんな大々的に話題にされちゃったら、もう手の甲には貼れないけれど。沙羅さんから三枚もらった内の、最後の一枚。天気に寄らずに目に出来る、特別な夜の世界。
「よし。切りの良いところまで仕上げるぞ!」
 その小さな美しさに力をもらった私は意気込みを新たに、体を目一杯に伸ばした。

「小鳥。話がある」
 自室の扉が唐突に開く。腕を組み仁王立ちする翼に、瞬時にクッションを投げつけた。
「人が着替えてる最中に入ってこないでよ!」
「ふむ。相変わらずチビのくせに胸はあるな」
「最ッッ低!」
 再び枕を振りかぶった私だったが、翼はそれを軽くキャッチしてにたりと笑った。相変わらず、憎ったらしい兄だ。
「まあ、それは置いといて。小鳥。昨日も一昨日も、夜飯ろくに食べてないだろ」
 確信をもった言葉に、ぎくりと肩が揺らす。
 別に隠しているつもりはなかったが、朝の出勤前しか顔を合わせていない翼に、そこまで容易く見抜かれるとは思っていなかった。
「仕事が大変なのは仕方ねぇけどさ。遅くなっても食に無頓着になるなよな。倒れるぞ」
「ん。ありがと。気を付ける」
 素直にそう告げられたのは、家族を気遣う思いがわかるから。私も同じ立場なら、きっと同じ事を翼に告げるに違いない。
 幼い頃にお母さんを亡くした、私たちだから。
「それで? お前のその装備はD? E?」
「出ていけー!」
 今度こそ私は、クマの縫いぐるみを兄の頭にヒットさせた。

 旅行予定日、戸塚さんから無事に旅行先に着いたとメールが入った。
 ギリギリまで引継を渋っていた戸塚さんのことだ。這いつくばってでも出勤してくるのではと危惧していた私は、安堵の溜め息とともに短文で進捗と旦那さんへの挨拶を伝えた。
 スマホをしまう前にハワイの天気を確認する。向こう一週間は太陽マークが踊っていて、私はよしと頷いて仕事に戻った。
「ご確認ありがとうございます。最終原稿は後日、戸塚からFAXで送らせて頂きます」
 電話口の相手が電話を切るのを確認してから、私は喉奥に詰めていた息をほーっと吐き出して受話器を置いた。進捗表の一項目に赤ペンでチェックマークと日付を入れる。
 ひとまず締め切り間近なものは片付けたし、残る内容は二日かからず終われる内容だ。
(貴女はもっと自信を持って良い人だと言っていました。俺もそう思いますよ。小鳥さん)
 男友達の柔和な微笑みを思い返しながら、私はふふっと一人笑いした。
「今日はぎりぎり、翼とご飯を食べれるかな」
 その後すぐに柚に誘われて、私は久しぶりにまともなランチにありつくこととなった。

「……あれ?」
 思わず声にしてしまった疑問符に、周りの子たちも揃って反応を見せた。
「小鳥さん?」
「ええっと。私の机の上のものとか、誰も持っていったりしていないよね……?」
 あるわけないと知りつつも、私は呆然とした口調で問いかける。当然、返ってきた答えは否だった。
 この資料を最後に確認したのは三日前。それから今まで、一度も触っていなかった。
 戸塚さんから引き継いだときには確かに挟まっていた資料。それが何故か、閉じてあったファイルから忽然と姿を消していた。
 資料にはナンバリングが施されていた。1から3までのインタビュー内容。姿が見えないのはそのうち3の資料だ。
 旅行中の戸塚さんに不要な連絡を取らないようにとしつこく内容のチェックをしたから、引継時にあったことは間違いない。
 自分が受け取った後、どこかに消えてしまった?
 嫌な汗が背中を静かに流れていく。落ち着け、落ち着けと自分をなだめ、引継の際に自分で取ったメモを取り出した。
 3の資料の内容は、やっぱり書き留めてある。外国人実業家のインタビューだ。
 ファイルには、インタビュー内容を和訳したものをプリントアウトしてあったはずだ。それらを合わせた内容で、記事に落とす作業だったのだけど──。
 無いとわかっていながらも、ファイルの外や机の隅々に至るまで再度確認する。
 一体、どうして?
 混乱が次第に波を引き、身体がすうっと冷たくなっていく。
 その後もつゆほども姿を見せない資料の影に、私は呆然と頭を抱えてしまった。

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