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ことりの上手ななかせかた

 探し回った資料は結局見つからず、失意の中で向かった先は会社の屋上だった。
 いつもは星空の夜にしか足を踏み入れないそこも、今は日差しが降り注ぎ見下ろす街は慌ただしく時間が進んでいる。
「どうしよう……」

 第5話 沙羅さんは最強のお友達

 戸塚さんが帰国するのが三日後。今回の記事はそれまでにまとめておく必要がある。
 幸い資料は他社との合同公開取材でおこしたもので、機密扱いではない。それでもメインとなる三人の外国人実業家へのインタビューは、いずれも戸塚さんが周囲に協力を仰いでようやく実現したものだったはず。その内の一人分の資料が、消えてしまうなんて。
「駄目だ。思い出せない……っ」
 あのファイルを受け取ってから、自分は確かに机の上に置いていた。次の日の朝、作業順に並べ変えた問題のファイルは、一番下に積み重ねたはずだ。
 それ以降は中身に触れるどころか、ファイルを動かした覚えすらない。
 六ツ穴リングでファイルされていた資料だ。どこかに飛んで行ってしまったなら、破れた書類の跡が残っていないのはおかしい。
 のろのろとポケットに手を伸ばした私は、スマホをゆっくりと操作する。表示させたものは、戸塚さんの携帯番号だった。
 やっぱり……連絡するしかない?
 資料が無くなった今、解決手段がないわけではなかった。戸塚さんのパソコンに保存されている資料データを、再度プリントアウトすればいい。
 ただ、それには問題がある。
 提出前のファイル関係は、基本的に個人ファイルに保存することになっている。そして個人ファイルは各々のパソコンからではなければ当然アクセスできない。
 つまり、戸塚さんのパソコンを起動させてもらうために、戸塚さんからその了承とパスワードを聞かなければならないのだ。
「……っ」
 駄目だ。出来ない。私はか細いため息をつくと、スマホの画面を暗転に戻した。
 戸塚さんは、一年前からずっと、この旅行を楽しみにしていた。本当はもっと早い時期で計画していたのに、急な仕事の関係で二度ほど延長されてきたのだという。
 そして今回ようやく、念願叶った新婚旅行。
「うん。駄目だ。絶対」
 連絡をいれれば、折角の新婚旅行に大きな水を差してしまう。そんなことは絶対に出来ないし、したくない。
 とすれば、他の解決方法を考えなければならない。それなのに、肝心の代替案はいくら考えても浮かばなかった。
 スマホカバーにしまっていた夜景の絆創膏が視界に留まる。綺麗な星たちが、じわりと滲んでいくのがわかった。
「沙羅さん……」
 こんな真っ昼間に来るはずがない。わかっているのに、どうしてだろう。今、あの人に会いたくて堪らなかった。
「沙羅さん。私、どうしたらいいんだろう?」
 ぽつりと呟いた言葉。
(わたし、どうしたらいい?)
(どうしたらいいの……ママぁ!)
 その台詞が昔の記憶と重なる音がして、私は目を見開いた。ああ、本当に成長してないな。
「沙羅さんは、お母さんじゃないのにね」
 ふふ、と小さく笑みを漏らした私は、ぐいっと大きく伸びをする。交差させた指の隙間からの光に目を細め、ふうっと息をついた。
「残ってる二つの資料で、大枠の記事は作れるはず。そっちの作業を超特急で済ませて、その間に何かアイディアが浮かべば……」
 よし。切り替えた。まずは今、出来る限りのことをしよう。
 早速頭の中で記事の構想を練りながら、私はそっと屋上から資料庫へ舞い戻った。晴天の眩しい外から薄暗い室内に足を踏み入れたため、すぐには目が慣れない。
「小鳥さん?」
 そのためぼんやりと闇が消えるのを待つよりも、その声が耳に届く方が早かった。
「こんな時間にどうして屋上へ? いつもなら夜にしか……、」
「……っ」
 沙羅さん。不意打ちで現れたその人に、私はしばらく呼吸を忘れた。我に返ったのは、目の前の沙羅さんがどこか慌てた様子でこちらに駆け寄ってきたから。
「何か、あったんですか」
「え?」
「泣いているじゃないですか」
 言われた始めて、頬に滴が掠めていることに気が付いた。途端、喉奥からせり上がってくるものを覚える。くしゃりと顔が歪みそうになって、私は慌てて笑顔を作った。
「ち、違うんです。何があったわけではなくて、その」
「貴女は、原因なく涙を流す人には見えません」
 宥めるように言いながら、沙羅さんの手のひらがそっと私の頭に乗る。その感触があんまり温かくて、うっとり目を細めてしまう。
「沙羅さんに、会いたいと思っていました」
 ぽつりとこぼれ落ちた言葉だった。
「沙羅さんに会いたくて溜まらなくて、そしたら、本当に沙羅さんが現れて。だから……嬉し涙です。これは」
 その顔を見ただけで、その声を聞いただけで、こんなに心が頼もしく勇気づけられるのは何でだろう。
 すると次の瞬間、沙羅さんの大きな手のひらがゆっくりと頭を撫でるように動き出した。その手は、耳のすぐ後ろを通り、やがて頬にたどり着く。
「え……?」
「俺のせいで泣かせた涙を、貴女に拭わせるわけにはいきませんから」
 頬についた泣き痕を、沙羅さんの指が優しく拭っていく。
「い、いいんですっ! こんなのゴシゴシッと擦っておけば何ともありま──、」
「いいから。黙って」
 笑顔なのに有無を言わせない口調に、思わず背筋がぴんと伸びる。その後もますます丁寧に頬を拭う沙羅さんに、胸の鼓動がドキドキとうるさいくらいに高鳴っていった。
 そ、そんなにたくさん、泣き痕が付いてたのかな……?
「俺も、早く小鳥さんに会いたいと思っていました」
 夢うつつに身を委ねていたため、反応が遅れてしまう。
「でも最近は生憎の空模様でしたし、何より小鳥さんはとても忙しそうでした。あまりむやみに話しかけない方がいいと、自重していたんです」
「え……え?」
「だから、会えて良かった」
 ぶわわわっと顔が一気に沸騰する。もう何度目のことだろう。
 ぐるぐる目を回している私にくすりと笑いながら、沙羅さんはようやくその両手を離してくれた。
「小鳥さんの歌声も、またゆっくり聴きたいです。子守歌のようで、安心しますから」
「あ、あははは。良ければ録音しましょうか? そうすれば沙羅さんは毎日安眠──、」
 続くはずだった言葉は途切れ、喉奥に飲み込まれた。
 録音。それだ。
 初めは小声だった心の声が、次第に大きな希望に溢れていく。
「ありがとうございます! 沙羅さん!」
 思わずその胸に飛び込むようにお礼を言い、急いで資料庫を後にした。

「え? 戸塚ちゃんの辞書を借りたい? そりゃ、返してもらえるなら平気だろうけど」
 戸塚さんが所属している第二編集部のチーフにお声を掛け、私は戸塚さんの机にあった英和辞書を手に取る。
 中身をぱらぱら見てみると、思った通り、所々マーカーや付箋で彩られていた。
「堀井さん、どうかしたの? 何だか少し、顔色が良くない気がするけれど」
「あ、あははは。そんなことないです大丈夫ですありがとうございます……!」
 挙動不審が目に付いてしまったようだ。
 大人な香りを漂わせる向かい席のお姉さまに慌てて返答すると、私はそそくさと総務部のフロアに戻った。

「ICレコーダーから英語インタビューを書き起こしてるだぁ~!?」
「ちょ、柚っ! 音量下げて……!」
 その日の夜。定時を数時間過ぎた総務部は、例によって私の姿しかない。そんな中、夕食の差し入れがてら立ち寄ってくれた柚に、紛失した資料のことについて話していた。
「無くなったインタビュー資料をもう一度作るためにね。戸塚さんから引き継いだたくさんの資料のなかに、インタビュー時のICレコーダーも入ってたんだ」
 インタビュー資料はない。その元になった日本語訳、そして原文となる英語文も。
 ならば、さらにその元になった音声データからインタビュー資料を再作成するしかない。
「ICレコーダーが無かったら本当にお手上げだったけどね。本当に良かったよ」
「にしたって、一体何なの。そのクソ面倒くさそうな作業は」
 顔を盛大にしかめる柚に、苦笑する。それは私も重々承知していた。
 ICレコーダーから英語のインタビューを文面に起こし、それを日本語訳し、最終的な記事に落とさなければならない。作業可能時間は残り二日と数時間。
 きっと寝る間も惜しむことになるだろうけど……うん。大丈夫。何とかなる!
 雨がぱらついてきたらしい天気の中、柚がわざわざ買ってきてくれたサンドイッチでようやく私は休憩に入る。
 美味しい玉子エッグサンドに舌鼓を打つ私に、柚は「というか」と重く口を動かした。
「資料を無くしたって言ってたけどさ。小鳥は何か覚えはあるの?」
「ううん。それが本当にさっぱりで」
 結局私は、紛失した資料の具体的な内容は、誰にも言わずに伏せたままだった。
 しばらく黙った後、柚が神妙に口を開く。
「誰かが、盗んだんじゃないの?」
「えっ」
 その考えはまさに、青天の霹靂だった。
「ぬ……盗んだ? どうして? 誰が?」
「そんなん知らないっつーの! でも現状を踏まえたら、それしか考えられないでしょ!」
 そう言いながらガクガク肩を揺らす柚に、私はなるほどと納得していく。
 ファイルに綴じられていた資料が、破れた痕跡も残さず無くなるなんて不自然だ。だとすれば、誰から故意に持ち出した可能性しかない。
 仕事をどうするかばかり考えていて、どうして無くしたのかはあまり考えていなかった。
「実はね。小鳥と沙羅さんが付き合ってるって噂、私の部署にも届いてんだよね」
「え、柚の部署まで!?」
「まあ、その場は私がやんわり否定しておいたけどね。相手はあの女神様だからね~噂が一人歩きするって事は十分考えられるよねぇ」
「そ、それじゃあ、今回資料を盗んだのも?」
「安直だけど、沙羅さんのことが好きな誰かの、子供じみた嫌がらせ……とかさ」
 ああ。嫌な予感が現実になってしまった。
 思えば沙羅さんと交流を持って初期の頃、そんなことを憂慮していた自分がいた。そのくらいに沙羅さんは神聖で、恐れ多い存在だったのだ。
「……」
“だった”か。無意識に過去形になっている自分がおかしい。
「まぁ、それなら仕方ないね」
「仕方ないって……ちょっと、小鳥?」
「それでも私は、沙羅さん友達でいたいから」
 少し前の私なら、及び腰になって沙羅さんとの距離を広げていただろう。でももう、彼は私の大切な人として心の中に息づいている。
「確かに周りからはよく思われないかもしれないけど、私は沙羅さんと、もっともっと仲良くなりたい。人生初の男友達だもん」
 目を瞬かせる柚に、にこりと微笑む。
「この際、誰が盗んだとかはどうでもいいんだよ。戸塚さんから引き継いだ仕事を無事に終えることが出来れば」
「でもアンタ」
「それに! もしそれが本当だったらなおのこと、この仕事は完遂しなくちゃ駄目だから!」
「ったく。見かけに寄らず頑固者なんだから」
 諦めたように肩をすくめた柚は、つんと私の額を指でつついた。
「明日から出張が入っちゃってる私が言うのもなんだけど……どうしても手に負えないと思ったら、すぐにでも言ってよね?」
 額を押さえる私に、学生時代からさんざん向けられてきた呆れ顔が言う。
「これでも、数年来の親友様なんだから」

 よし、終わった……!
 翌日の就業時間中、私はどうにか音声インタビューの書き出しを終わらせた。
 確認作業も三度繰り返したし、問題ない。これでも英語の聞き取りには自信があるのだ。
 これもお母さんのお陰だね。口元に笑みを讃えて時計を仰ぐ。十一時。そういえば、朝ご飯を取るのを忘れていた。
「あっ、小鳥さん、良かったらコーヒーを入れましょうか?」
「ありがとう。でも、今から昼食を買ってくるから大丈夫だよ」
 後輩の気遣いに感謝しつつ、私は朝ご飯兼昼ご飯を買いにオフィスを後にした。最近言われたばかりの兄の言葉が頭をよぎる。
「こんな時に倒れるわけにはいかないもんね」
 ほんのりぼやける頭を横に振りながら、エレベーターのボタンを押す。
 到着したエレベーターには、お昼前ですでに数人が乗っていた。視線を合わせないように俯きながら、小さい身体をそそっと入れる。
 エレベーターがゆっくりと下っていく感覚に、ほうと息をついた。
「ね。あの子じゃない? 最近沙羅さんと噂になってる子って」
 ドキン、と心臓が大きく鳴った。
 エレベーターのドアに向かい合っている私のすぐ後ろで、女の人数人の話し声が聞こえる。一応声を潜めているようだが、エレベーター内では全て筒抜けだった。
「ええ? それって、沙羅さんと急にお近付きになったっていう、総務部の?」
「沙羅さんってあの沙羅さんでしょ? 第一グラフィック部のイケメンさん!」
「あの子が沙羅さんと付き合ってるの?」
「うっそ~……」示し合わせたように呟きを重ねる大人の女性達。その潜めた言葉の矢が胸に容易に突き刺さった。
 エレベーターの階層表示の動きが、酷く遅く感じる。落ちていく浮遊感がやけに重たくて、私はぐっと足に力を込めた。
 エレベーターの扉に付きそうになった手を、慌てて逸らす。落ち着け。こんなのもう慣れっこになったはずじゃないか。
 大丈夫、大丈夫、だい、じょ……。
「えっ。小鳥ちゃんと慧人って付き合ってたの!? 何だよ~俺小鳥ちゃんのこと狙ってたのにさぁ!」
 はい? 箱の中に詰められた張りつめた空気を、おちゃらけた男性の声が一変させた。
「よっ! 小鳥ちゃん!」
 軽快に肩を叩いてきた柊さんに、呆気に取られてしまう。
「もしかして今からお昼? 良かったら一緒に食べようよ。最近出来た美味しいお店、知ってるんだ~」
 瞬間、ほんの僅かな間で、柊さんは後ろの女性社員に視線を向けた。
「一度くらい俺にも、君をものにするチャンス頂戴よ。ね、小鳥ちゃん?」
 唐突に低くなった声色に、背後に控えていた彼女らが一斉にビクつくのがわかった。

 結局私は、そのまま柊さんとお昼をご一緒させていただくことになった。
「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
「ん? 迷惑なんて何にもないよ? 言ったでしょー。俺も一度くらい、小鳥ちゃんを落とすチャンスが欲しかっただけ!」
「あ、はははは……」
 まったく。柊さんのマイペースは相変わらずだ。でも、あのエレベーターの中で、柊さんの言葉は救いの手だった。
 あのまま明るい調子で私の肩を押し、お洒落なレストランで柊さんはごく自然に私の椅子を引く。やっと温もりを取り戻してきた自分の手を、机の下でそっとさすった。
「それよりいいの、小鳥ちゃん? 食事、そんなに少なくて」
 言いながら柊さんが視線を落とす先には、単品で頼んだパンとサラダとスープ。その点彼はというと、大盛りのランチメニューに食後のデザートも頼んでいた。
「あ、わ、私、もともと食が細いんです。だから、このくらいでちょうど良くて」
「まあ、小鳥ちゃんが大食いって言われる方がよっぽど驚きか」
 にっと笑う柊さんは太陽のようだ。少しお調子者のきらいがあるけれど、そんなところでさえ周囲から慕われる理由なんだろう。
 柊さんが太陽なら、沙羅さんはお月様かな。
 あの人は神秘的で儚げで、それでいてどこか妖艶で──あの危うげな美しさは、真っ白な月光のようだ。
「それでさ。どうなの? 実際のところ」
「え?」
「小鳥ちゃんと慧人のこと。どんな感じで付き合い始めたのかな~ってさ!」
 何とも朗らかに尋ねられた質問に、思わずむせてしまう。差し出された水で喉を落ち着かせた私は、何度目かわからない弁解をした。
「ですからっ、沙羅さんと私はお付き合いなんてしていませんっ! というか柊さん、何で付き合っている前提の質問なんですか……っ!」
「えー。でも慧人に聞いてみたらさ、『想像にお任せします。小鳥さんに変な手を出さないで下さいね』って言うもんだからさぁ」
 稲妻が頭上をめがけて落ちてきた。沙羅さんは相変わらず、天然爆弾を降らせているようだ。
 くらりときた頭を抱えつつ、私はどうかその話を柊チーフ以外誰も聞いていませんようにと祈る。
「それじゃ、付き合ってるわけじゃないんだ?」
「当たり前です! 大体、沙羅さんが私と付き合うはずないじゃないですか……!」
「どうして?」
 素の返しを受け、一瞬返答に窮してしまう。
 何故なら、今の今までこの一言で周囲には納得してもらっていたからだ。
「どうして慧人は、小鳥ちゃんと付き合わないって言い切れるの?」
「え、え? それは」
「俺は、そんな風には思わないけどな~?」
 ご飯を頬張りながら、柊さんは首を傾げる。
「むしろ、慧人の方が小鳥ちゃんを気に入ってるように思ってたよ。そんで俺のことは、要警戒人物と思ってるみたいな」
 楽しげに笑う柊さんだったが、私はいまいち信じられずにいた。沙羅さんの言葉には、いつも曖昧な何かが漂っているから。
「ただ、さっきみたいな雑音がしんどいようなら、アイツはあまりお勧めしないな」
 すっと周囲の温度が下がるのを感じた。
 思わず柊さんを見てみると、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめている。
「アイツは会社の中でも外でも人を惹きつけちまう奴だからな。さっきの馬鹿女共みたいに、無駄口叩く奴もいるだろう」
「そう、ですね」
「はは、なんてな。こんなこと言ったってバレたら、俺も慧人に半殺しにされるかも……」
「でも、私は大丈夫です」
 半ば無意識に出ていた言葉だった。
 笑顔で告げたつもりだけど、もしかしたら少しだけ剥きになっていたのかもしれない。
「私、昔から男子に虐められてたんです。だから、そういうのには耐性がありますし!」
「え。小鳥ちゃんが? そんなに可愛いのに? ああそうか。好きな子ほど虐めたくなるってやつなのかな──、」
「そ、それにですね……!」
 軽口を挟まれつつも、私は思いの外はっきりと先を続けた。
「沙羅さんはっ、私の人生初めての男友達なんです……!」
 張り上げた声が、予想以上にレストランにこだましてしまったことに気付く。
 かああっとみるみる顔が熱くなるのを感じ、俯いてしまう。
「わ、私が沙羅さんと釣り合わないってことは、十分わかっていますから。それでも私、沙羅さんが好きなんです」
 少し目を丸くした柊さんに、私はむんっと意気込みを見せつけた。
「だからっ、これくらいへっちゃらです! 辛いことを言われたら今日のおやつのことを考えればいいし、資料が無くなればまた一から作り直せばいいですから!」
「資料?」
「う、あ、と、とりあえずっ! そんな訳なので、私のことなら大丈夫です……!」
 まずい。思わず熱くなってしまった。
 私は取り繕うように笑顔を浮かべながら、手持ちぶさたな手にメニュー表を取った。
「今日は朝から太陽サンサンで……仕事日和ですね! まだお腹に入りそうですし、何か甘いものでも食べようかなぁ……っ?」
「あ、それじゃこのパフェはどう? 前に俺食べたんだけど、後味がすっきりして美味しかったよ」
「あ、それじゃあこれにします。私、チョコレート大好きなので」
 柊さんが勧めてくれたチョコレートコーヒーパフェで糖分補給を十分に終える。そしていつの間にか会計を済ませていたらしい柊さんとともに、私は会社に戻った。
「俺。小鳥ちゃんのこと本当に気に入っちゃったかも」
「へ?」
 先に総務部があるフロアにたどり着き、エレベーターから降りる。奢ってもらったことで何度目かわからず頭を下げていると、頭上にぽつりと呟きが落とされた。
「またランチご一緒しようね。小鳥ちゃん」
 柊さんが快活な笑顔にピースサインでエールを送ってくれた後、エレベーターの扉はゆっくりと閉まった。

「小鳥さんっ、お疲れさまですー!」
「うん。お疲れさまー!」
 後輩達が「あまり無理しないでくださいね」と残してオフィスを後にした。
 ふう、と一息吐いた私は、静まり返ったフロアを眺める。レコーダー起こしを終えた私は、午後からは翻訳作業に入っていた。戸塚さんの机から拝借した英和辞書を傍らに、黙々と目の前の英文を紐解き続ける。
 時計を見上げた。まだ九時前か。
 よし。このページを終わらせたら、コーヒーを淹れてこよう。
 小さな楽しみで自分を奮起させ、再び私は作業に戻った。

 数時間後。
「う、い、いたたた……」
 先ほどからぼんやりと感じていた違和感が、急に刺すような痛みに変わる。
 私は走らせていたペンを置き、悲鳴を上げるお腹を押さえていた。何だろう。さっきからお腹が苦しい。
 ひとまずお手洗いに、と席を立ち上がった途端、頭上から一気に血の気が引くのがわかった。ガタン、と派手な音を立てて床に座り込んでしまう。
 それと同時に、嫌な予感を覚えた私はとっさに自分の鞄を漁った。
「こんな時に限って、ないか……」
 ポーチに手を突っ込んだものの、見つかったのは鎮痛剤だけだった。絆創膏と一緒に、ナプキンも補充しておけば良かった……!
 心の中で嘆くものの、ひとまず薬を飲まなければ。重い身体をどうにか起こし、私は給湯室に向かって足を進めていく。
 しかし、通路に出たと同時に、再び鋭い痛みが襲ってくる。縋るように再び周囲を見渡すも、総務と経理しか入っていないこのフロアには誰も残っていない。力が入らず、再び私は床に腰を落とした。
「小鳥さん?」
 微かに耳鳴りが混じる耳に、うっすら届いたのはあの人の声だった。

「薬を飲みたいので、お水をもらえますか……?」
「はい。すぐに」
「あと……本当に、本当に申し訳ない限りなんですが」
「はい」
「コンビニで……生理用ナプキンを買ってきてくれませんでしょうか……?」
 ああああ。消えて無くなりたい。
 沙羅さんのお陰で、その後の処置は滞り無く完了した。ただし、沙羅さんに負担させた事柄を踏まえると、本当に溶けて消えてどこかに撒かれたい思いだった。
「気にしなくて大丈夫ですよ。小鳥さんはもうしばらくそのまま休んで下さい」
「はい……」
 宥めるように告げる沙羅さんに、素直に頷く。
 手持ちのナプキンが切れてるときに生理になるなんて、完全に不注意だった。
 よりによって、沙羅さんにナプキンのお遣いまでさせてしまうなんて……!
 休憩室で横たわる私に、沙羅さんは笑顔を向けてくれる。情けないやら申し訳ないやらで、貧血とは別に気が遠くなりそうだ。
「顔色もだいぶ良くなったみたいですね」
「あ、はは。本当に、ありがとうございます。薬を飲めば、私の生理痛は結構簡単に収まるので……っ、あ!」
 直接的な会話をしてしまったことに気付き、ぱっと口を塞ぐ。そんな私を見て、沙羅さんはふふっと小さく肩を揺らした。
 不意に沙羅さんが背負った窓の向こうに、静かに浮かぶ満月に気付いた。
 雲の影もなく白い明かりを放つその月は、やはりどこか沙羅さんに似ている。
「あ、あの……そういえば沙羅さん、こんな時間にどうして総務部に?」
 うるさい鼓動が伝わってしまうのではないかと思った私は、頭の引き出しから引っ張りだした話題で間を持たせようとする。
「小鳥さんが、呼んでいる気がしたので」
 そしてその間は、ほんの数秒しか持たなかった。月を背負ってそう告げる沙羅さんに、私の胸が再び加速を始める。
「というのは、半分冗談で」
「え……えっ?」
「今夜は、久しぶりの星空だったので」
 星、空?
「あ!」
 そうだ。今日は何日か振りの、雲ひとつ無い星の夜。沙羅さんと、屋上での逢瀬の約束をした夜だった。
「す、すみません! 本当に、私……っ!」
「いいんですよ。ただ、貴女がまた無理をしているんじゃないのか気になったんです」
「さ、沙羅さん」
「今日はもう帰って休んだ方がいいですね。家まで送りますよ」
 さらりと告げられた提案に、私は思わず頷きかけた。しかしすぐさま首を振った向きは、縦ではなく横だった。
「だ、大丈夫です。もう薬も効いてきましたからっ。後は白湯とカイロで身体を冷やさなければ──、」
「駄目です。まだ顔色も悪いですし、このまま続けたらまた悪化するでしょう」
 宥めながらもどこか強い口調だった。でも、ここで手を止めたらきっと作業が間に合わない。
「大切な仕事が残ってるんです。本当に駄目だと思ったらタクシーで帰りますから……っ」
「そんな顔色の貴女を残して帰るなんて出来ません」
「沙羅さん……お願いします。無理はしませんから!」
「小鳥さん」
「戸塚さんと約束したんです!」
 喉奥から混み上がってきた熱いものに、私はぐっと堪えて蓋をした。
「戸塚さんと、約束したんです。大切な先輩です。新婚旅行中なんです。私、先輩に言ったんですよ。後のことは、任せて下さいって」
 堰を切ったようにこぼれ落ちていく言葉に、沙羅さんはただ黙っていた。
 助けてもらったのに、これ以上困らせるなんて最悪だ。呆れられたかもしれない。
 それでも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「だから、このまま作業は続けます。本当に、すみません……っ」
「……意外と頑固者ですね。小鳥さんは」
 静かに告げられた言葉に、ズキンと胸が痛む。俯いていた私は膝の上で拳を作った。
「俺と同じです」
「え?」
「わかりました。それでは、こうしましょう」
 有無をいわさず話を進める沙羅さんが、殊更分かりやすい笑顔をこちらに向ける。
「俺も貴女の仕事に付き合いますよ。小鳥さん」

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