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ことりの上手ななかせかた

「堀井さん! 良ければその資料、俺が半分持ちますよ」
「へ?」

 第8話 沙羅さんは私の初恋の人

 手持ちの資料で半分ふさがっていた視界が、ぱっと一気に広がった。隣には、資料を代わりに持ってくれている男の子。
「これはどこまで持っていけばいいですか?」
「あ、わざわざすみません。それは十七階の小会議室まで……!」
 最近、こうして社内の人から声をかけられることが少し増えた。この人は、確か今年入社の子だったか。
 きっと今回のプロジェクトがきっかけで、私の名も覚えてくれたんだろう。運んでくれたことにお礼を言うと、短く首を振って彼は去っていった。

 インタビュー本番に向け、プロジェクトチーム内は慌ただしくなりつつあった。
「小鳥ちゃん、製作会社の担当者にこれをFAXしてもらってもいい?」
「斎藤さん宛ですね? わかりました。すぐに送ります」
「小鳥ちゃん。インタビュー内容に変更があったから、資料を集めてもらえるかな!?」
「わかりました。提出は明日の朝でも良いですか? 戸塚さん」
「柊さん、そろそろ出ますよ! 小鳥、先方から連絡が来たら携帯に連絡ちょうだい!」
「了解だよー! 昨日のメールで集合場所が変更になってるから間違えないようにね!」
 目まぐるしく飛び交う情報をせっせと収集して、共有データ内に全て整理していく。
 私は基本的に会社に残って連絡を受ける役割を任されていた。そのため、業務もほとんどデスクワークを占めている。
「小鳥さん、今戻りました」
「はい。お帰りなさい、沙羅さん」
 だからだろうか。人生初の恋心から、私はどうにかうまく目を背ける術を育みつつある。
 今回のプロジェクトはどうやらいろんな意味で、今までと違う世界を見せてくれるようだ。

「──よぉ~しっ! これで明日からの取材準備は万端だな!」
 段取りから資料に至るまで全ての確認を終えた後、柊さんが机をばんと両手で弾いた。
「ですね。明日は屋外取材が中心にですけど、天気も終日晴れているみたいですし!」
「二日目のインタビューの下準備もばっちりですよ」
 柚も戸塚さんも少しの疲れを滲ませつつも元気に返答をする。
 始終和やかな空気で幕を閉じかけた会合に、「あれ?」と柊さんの言葉がこぼれる。
「小鳥ちゃん、何か表情固い?」
「う、へっ!?」
 柊さんからのストレートな指摘に、肩をビクッと震わせる。
「だ、だだだっ、大丈夫です! 問題ないです、大丈夫……です?」
「あっはっは! 初めての大型案件だからなぁ~、緊張するのも無理ないか!」
「小鳥、ほら、息を大きく吸って~吐いて~」
 柚に促されるままに、深呼吸を繰り返す。まだ少し力が抜け切れていない気がする。
 途端、ぽんと頭に温かな感触が落ちてきたのがわかった。
「大丈夫ですよ。何かあったとしても、俺が何とかしますから」
「さ、沙羅さん……っ」
「ですから、安心して下さい」
 柔らかく向けられた微笑みに、凝り固まった心がじんわりと解されていく。
「よっしゃ! それじゃ今夜は、早めに帰って早めに眠ること! 明日は朝早いぞー?」
「柊チーフが一番心配ですけどねぇ?」
「柚ちゃん駄目だよー。本当のこと言ったら」
「ちょっ、柚ちゃんに戸塚ちゃん!? いつからそんな辛辣に!」
 女性陣にからかわれて嘆く柊さんの姿に、笑みがこぼれる。最初こそ手探り状態だったプロジェクトチームも、いつの間にか心地良い関係性が築かれていた。いつもいじられ役にある一方でリーダーシップを失わない柊さんに、柚と戸塚さんの安定の突っ込みが飛ぶ。
 そして光景を眺めながらいつも通り、机周りを片づけていた私だったが──。
「──」
 素早く耳元に近付いた囁きに、ぴたりと動きを止めた。
「小鳥ー。そろそろ帰らない?」
「ご、ごめん! まだちょっとだけやりたことがあって……先に帰ってもらって良いっ?」
「ええ? 何さ~またぁ?」
「まあまあ。前日なんだしあまり根詰めすぎないようにね、小鳥ちゃん」
「ごめんね柚! お疲れ様です、戸塚さん!」
 手を振る二人に頭を下げ、私はそっと小会議室を後にした。

 少しだけ、星の下で休みませんか?
 先ほど吹き込まれた彼の言葉が、いまだに耳元に残っている。そっと手を添えると、まるで彼の温もりが全身に広がっていくようだ。
 そして屋上に踏み込んだ私の目に飛び込んできたのは、変わりなく美しい沙羅さんの立ち姿だった。
 胸が跳ねる音に何とか気付かない振りをして、沙羅さんに歩み寄る私。何も問題ない。いつも通りの私だったはず。
 すると振り向いた沙羅さんがいつもの優しい微笑みを口元に浮かべ、そっと両手を差し出された。
 そして。唐突にその腕の中に閉じこめられたのだ。
「さ、らさん……?」
 言葉を詰まらせながら、私は沙羅さんに問いかける。
「こうしていれば、少しは小鳥さんの緊張も解れるかと思いまして」
「え?」
 背中をぽんぽんと宥めるようにさする手つきが、酷く優しい。
「深呼吸をして目を閉じて下さい。小鳥さん」
 広い胸板に押しつけられた自分の身体。
 嫌でも感じてしまう彼の体温に、どうしても幸せがこみ上げてきてしまう。
「――Amazing grace… how sweet the sound…」
「……!」
 頭上から聞こえてきた歌声に、思わず顔を上げる。
「はは。やっぱり、小鳥さんの歌声とは比べものになりませんね」
「沙羅さん……アメージング・グレースを?」
「実は少しずつ練習してみたんです。小鳥さんから受けとっている半分でも、お返しできるかと思いまして」
 どこか照れたようにも見える微笑み。それでも再び奏でられる歌声が、辺りにじわりと溶けていく。
 どきどきとうるさい胸の鼓動も、次第に心の奥に収まっていく心地がした。
「……沙羅さん」
「少し……落ち着きましたか」
「沙羅さん」
 繰り返し口にしたその呼び名に、見上げた先の彼が目を瞬かせた。
 沙羅さん。沙羅さん。沙羅さん。
「沙羅さん……私は」
「小鳥、さん?」
 胸一杯に溢れ出す想いの温もりが、喉を容易く通り抜けていくのに気づき、とっさに自分の口を押さえつけた。
 私は……今、一体何を。
「……すみません。何でもないんです」
 ようやく私は、沙羅さんに向かって笑顔を見せる。するりと腕から身体をすり抜けると、屋上の中央まで駆けていった。
「沙羅さん!」
 私たちを見下ろす星空に響く大声。お腹の底から張り上げた後、少し離れた場所の彼ににこりと微笑んだ。
「明日からの二日間、絶対成功させましょうね!」
 泣き笑いになっていても、決して悟られない距離で。

「わおー。小鳥ちゃん、今日の髪型もまた可愛いねぇ!」
「茶化さないで下さいよ、戸塚さん~!」
 髪を下ろした時ほどではないが、それでも初めての髪型はどこか気恥ずかしい。翼が慣れた手つきで完成させたのは、右耳の後ろにふわりとこしらえたゆるお団子ヘアーだった。
 もともと髪が天然パーマなこともあり、手際よくピンを差し込んでいくことで比較的簡単に完成した。念のため、崩れてきたときのために予備のピンも持たされている。
「まぁ~た翼兄ちゃん? 相変わらずのシスコンっぷりだねぇ」
 ケタケタと笑いながら、柚が機材を車に収めていく。
 彼女も今日は前髪も全て後ろに流し、何やらお洒落なヘアバンドを留めている。首の後ろに結われた小さな髪がちょこんと可愛い。戸塚さんもシンプルなポニーテールがいつもすごく決まってる。
 私も少しは感化されるべきなのだろうか。
「おーおー! 揃ってるなぁ~麗しの女性方!」
「すみません。お待たせしました」
 振り返った先の声の主に、はっと短く息をのんだ。
「おはようございます。小鳥さん」
「お、おはようございます。沙羅さん……っ」
 にこり、と笑顔を向けられるだけで、理由もなくぎこちない笑みになってしまうのは、いつもと会う場所が違うからだろうか。
 黒のカットソーにグレーの薄手のカーディガン。細身のジーンズをさらっと着こなす彼は、日の光をきらきらと浴びて、いつにまして魅力が際だつようだった。
 格好良い、なぁ……。
「髪型、お団子にされたんですか。可愛いですね」
 反応を返す前に、沙羅さんは柊さんに呼ばれて向こうへ行ってしまった。
「はぁ~……相変わらずお熱いことで」
「若いって良いね。甘酸っぱい青春?」
「っ、ち、違いますからっ! 私たちは友達なんですから……!」
「おや」「あら」柚と戸塚さんのからかいの言葉に、我に返った私はとっさに声を上げた。すると二人は揃って意味ありげな表情を浮かべる。
「ふぅーん……最近どうも変だなーとは思っていたけれど」
 鼻先が付きそうになるまで距離を詰めると、柚は口を開いた。
「“友達なんだから”ねぇ?」
「な、何? 何かおかしいっ?」
「んー、別に? ただ、」
 まるで自分に言い聞かせてるみたいだなーって、思っただけ。
 からかうでも責めるでもないその指摘に、私はしばらく呼吸を忘れた。

「主演の逢坂(おうさか)哲史(てつし)です。二日間どうぞ宜しくお願いします」
「はじめまして、朝比奈(あさひな)恵(めぐみ)です。この度はどうぞ宜しくお願いします!」
 自己紹介されるまでもなく、周囲の人間とは一線も二線も画しているその人物二人は、ブラウン管の中で見る何倍もオーラが漂っていた。
「っっきゃ~~~~っっ! 逢坂さんマジで格好良いわぁ! 痺れる! こんな人の写真を収められるなんて幸せ! 結婚してから何か大人の男的フェロモンもわんさと滲み出てるもんねぇぇぇ!?」
「朝比奈さんも顔ちっさー……さすが今を輝く美人女優だわぁ」
 私の肩を超高速で叩きながら小声で大声を上げるという妙技を見せる柚と、感嘆のため息をもらす戸塚さん。
 逢坂さんは主演を張るのが今回七度目で、八年前結婚してからは初の主演映画。そのため今回の映画はファンの間でも大注目されている。物腰柔らかそうな印象を与えるも、目があった瞬間すっと細められる瞳はとても強く、思わずドキッとしてしまった。
 朝比奈さんは幼少期から着実にキャリアを積んできた実力派。外見はあんなに大人っぽいけど確かまだ二十二歳で、男女ともにファンが多く去年のCM女王に輝いている。
「今回指揮させていただく柊です。こちらこそ、どうぞ宜しくお願いします! あとは日下部先生なんですが、うちの者が迎えに上がっているのでもうすぐ……、」
「お待たせしました」
 う。来た。
 投じられた声の主に全員が振り返る。
 すると以前と同様、和服姿の金髪が燦然と姿を現した。もちろん、彼が寵愛する沙羅さんを傍らに率いて。
「日下部です。この度はどうぞ宜しく」
 沙羅さんの後に姿を見せた日下部先生が、恭しく頭を下げる。それに合わせ、周囲の人たちもこうべを垂れた。
 私にはその価値すら計り知れない荘厳な着物に、さらさらと風になびく金髪。日下部先生と沙羅さんのツーショットは、まさに先の二人に勝るとも劣らない。
 以前目の当たりにした清々しいまでの喜怒哀楽はすっかりなりを潜め、原作者たる文豪にふさわしい静かで美しい微笑みをたたえている。二重人格の最たるものを目の当たりにし目を瞬かせている私に、視線がぱちっと交わされた。
 何故お前がここにいやがる? 威圧感溢れる一言が脳味噌に直接届けられた気がして、ぶるりと身震いが起こった。
「それじゃ、さっそく撮影場所に移動しましょうか!」
 手慣れた様子で指揮をとる柊さんが、笑顔で声を張る。
「今日は天気も良好ですし、予定通りの順で回っていきます! 何かご質問は──、あれ?」
「柊さん、どうかしましたかっ?」
「いや、気のせいかなぁ? 今さっき、その辺に小さい子供が居たような……」
「え?」
「──Hey,Taiga! Come over here!」
 突如その場に響いたネイチャーイングリッシュに、誰もがぽかんと呆気にとられた。
“タイガ、こっちに来なさい”?
 次の瞬間、私の後ろから一人の男の子が顔を出した。見た目からして五,六歳だろうか。
 少し不機嫌そうに唇を尖らせながら、渋々と言った具合に歩いていく。たどり着いた先は、主演の逢坂さんの元だった。
「I told you to wait in the car,didn’t I?」
「……I’ve got nothing to do.」
 逢坂さんの言葉に、自分の靴先を睨み付けながら答える少年。
「ええっと~……逢坂さん、そのお子さんは?」
「ご迷惑をおかけしてすみません。自分の息子です」
「へっ?」
 間の抜けた柊さんの言葉に反応して、生意気そうに向けられるグレーの瞳。
 ああ、これはまた。
 どうやら早速、予定外の問題が舞い降りてきたようです。

 逢瀬哲史は八年前にアメリカの一般女性と結婚し、以後アメリカに居住していた。
 今回の来日では、仕事の合間の時を妻と幼い子どもの三人で過ごすのが逢坂さんの当初の予定。
「……の、はずだったんですが」
 移動中の車内で話を聞いていた私たちに、逢坂さんは困ったように笑ってみせた。
「日本に着いた翌日、移動疲れもあって妻が突然体調を崩しまして。念のため病院で診察を受けることに」
「えっ」
 思わぬ言葉に私は小さく声を上げた。
 今移動中のこの車には、私の他逢坂さんとマネージャーの方、柊さんに加え、息子のタイガ君の五人が乗っている。
「そ、それで奥様は……っ?」
「いつもの持病なので心配はありません。ただ、あんまり急なことだったので子どもを預ける先が定まらなくて」
 逢坂さんが説明する間中、隣でじっと車の外を眺める息子のタイガ君。その頭を愛おしげに撫でる逢坂さんに、自然と笑みが浮かぶ。
「急なことで本当に申し訳ありません。皆さんの邪魔をしないようマネージャーに世話を頼みたいところなんですが、これはどうも子どもが苦手で。事務所の方に掛け合っているんですがどうも人手がないと」
「私たちは全く構いませんよ! 息子さんには退屈させてしまうかも知れませんけどね」
 柊さんはそう快諾すると、外を向きっぱなしだったタイガ君の肩をぽんと叩く。
「何かあったらおじさんに言ってな。タイガ君!」
 言いながらにこりと笑顔を向ける柊さんに、タイガ君はすぐさまぷいっと顔を逸らす。不発に終わった柊さんは、「あれぇ~?」と大げさに首を傾げていた。
 それにすら反応を示さず向こう側から来る汽車に視線を馳せているタイガ君に代わり、逢坂さんが慌てて間を持たす。
「すみません。タイガは人見知りで。それと日本語が……、」
「──Do you like trains,boy?(汽車が好きなの?)」
 先ほどよりもはっきりと反応を示したタイガ君に、私はにこりと笑みを向けた。
 下調べした逢坂さんの情報にあった。息子のタイガ君は日本に来たことはなく、向こうでの生活では英語を用いていると。
「My brother liked trains,too. He had a lot of train’s toys in his childfood.(私のお兄さんも好きだったよ。子どもの頃はたくさんおもちゃを持っててね)」
「……I have,too.(俺も持ってる)」
「Oh! So have you heard this song?(そうなの。それじゃ、この歌は聴いたことある?)」
 そして続けた歌は“I’ve Been Working on the Railroad”。米国の子どもならまず知っているであろう鉄道の民謡だった。
 しばらく歌っていた私の声に続くようにタイガ君の歌声も重なり、私は笑顔を浮かべる。
「Great!」
 するとリラックスできたのか、タイガ君の表情にもやや誇らしげな色が滲みだした。
 お母さんが検査でお父さんが仕事で、その上周りが異国語だらけ。不安で固くなるのは当たり前だ。
「Please call me Kotori.If you want any help,please let me know any time.(私のことは“小鳥”って呼んでね。何か困ったことがあったら遠慮なく言って?)」
「……I got it.(わかった)」
 少し戸惑いをみせつつも、返してくれた言葉にほっと胸をなで下ろす。これでタイガ君の心細さも緩和できるだろう。母親が病に伏した時の心許なさは、自分にはよくわかる。
「Don’t you feel cold? Here is close to sea…(寒くない? ここは海に近いから)」
 口にしかけた言葉は、しかし最後まで紡がれることはなかった。
「ええっと……?」
 二人の男性の真っ直ぐな視線が自分を射抜き、久しぶりに男性に対する躊躇が背中を走ったのだ。

「はーい! それじゃあ何枚か連写します!」
 北の海は、初夏でも裸足で入るにはまだまだ冷たい。それでも波で遊びながら自然体で笑顔を浮かべる逢坂さんと朝比奈さんの姿は、まさに被写体として完璧だった。
 カシャカシャと柚のシャッターを切る音が雲一つない青空に溶けていく。
「タイガ君、海は初めて?」
 こそっと英語で尋ねた私に、隣の小さな身体がぴくりと反応した。
「ここの海はまだ少し冷たいと思うけど……良ければ少しだけ足を付けにいこうか?」
 しばらく考えたようだったが、結局プイッと逸らされてしまった。眉間に寄る小さなしわに、思わず苦笑が漏れる。
 車の中で自然と交わしていたタイガ君との会話。それにいつの間にか目を丸くしていた逢坂さんと柊さんは、気づけば揃って手を叩いていた。
(うはぁ~、戸塚ちゃんから聞いてたけど、小鳥ちゃんってば英語力が凄いんだな!?)
(あの……堀井さん、でしたね? こんなことをスタッフの方に頼むのは恐縮なんですが)
「仕事に差し障りない程度に息子の面倒をお願いできませんか」──とは言うものの。
 先ほどの逢坂さんの言葉を思い返しながら、私はちらりとともにベンチに腰を下ろすタイガ君を見遣った。
 さっきこそ車から抜け出してはいたものの、こうしている限り何も問題ない。大人しい良い子だ。今も砂浜で撮影を続けるお父さんの姿を、ひたすら目で追いかけている。
 そのこめかみに滲む汗の粒に気付いた私は、慌てて鞄から取り出したキャップをタイガ君にかぶせた。
「っ、何……」
「今日はこれからもっと日差しが強くなるんだって。熱中症にならないように、タイガ君かぶってて?」
 笑顔で告げて頭を撫でる私に、少し不服そうにしながら再び視線を逸らす。翼が弟だったら、こんな感じだったのかもしれない。
 すると不意に、目の前がふっと陰った。
「貴女も、帽子をかぶらないと熱中症になりますよ」
「さ、沙羅さん……っ」
 どうやら私もまた、後ろから帽子をかぶらされたらしい。
 目を白黒させる私に笑みを浮かべながら、沙羅さんはそっとタイガ君の前に屈んだ。
「どうぞ。タイガ君」
 差し出されたオレンジジュースに、タイガ君が子どもらしく瞳を輝かす。
「Thanks.」と短く告げてプルタブを開ける様子が何だか微笑ましい。沙羅さんは、タイガ君を隔てて静かにベンチに腰を下ろした。
「あ、あの。これ、沙羅さんの帽子じゃ……?」
「俺はいいんですよ。これでも男ですからね。小鳥さんがかぶっていて下さい」
 宥めるように返されてしまうと、突き返すわけにもいかない。短く礼を言った後、辺りに吹き付けた海風に帽子を押さえた。
 その後、事務的な確認事項を二、三紡いだだけで、なんとなく会話は潰えてしまう。沙羅さんと言葉を交わすのが怖かったのだ。
 昨日の屋上の時と同じように──知らない間に自分の想いを言葉に乗せてしまいそうで。
「Kotori?」
「っ、あ」
 キーの高い呼びかけに、いつの間にか固く瞑っていた瞳をはっと開く。横を向くと、タイガ君がこちらを見つめ、沙羅さんも心配そうに顔を覗き込んでいた。
「す、すみません、ちょっと考え事を……っ」
「考え事、ですか」
「え?」
 予想外に平坦に落ちてきた言葉。強く吸い込まれるような沙羅さんの眼差しに、胸が打ち震える。遠くに響く波の音が、一際大きな音を弾かせた。
「すみません。仕事中にこんなことを話すべきではないと分かっていますが、小鳥さんに聞きたいことがあるんです」
 外された視線に、胸が苦しくなる。そんな表情をさせているのは、私なのだとしたら。
「っ、沙羅さ」
「慧人ーっ! ちょっと確認したいことがあるんだけどよー!」
 響きわたった柊さんの呼びかけに、私たちは揃って肩を震わせる。
「……まったく。さすが柊チーフですね」
 すぐにとりなおしたらしい沙羅さんが、苦笑を浮かべ腰を上げた。
 遠ざかっていく背中をみつめながら、いいようのない感情が胸を暴れているのを感じる。
 続くはずだった言葉は一体何だったのだろう。彼の言葉が、初めて怖いと思った。
「大人は面倒だな」
 ふと耳に届いた英語だった。
「どいつもこいつも口をむずむずさせてさ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「タ、タイガ君?」
「大人なんてみんな臆病で嘘つきだ。アンタだってそうだろ」
 歯に衣着せない言葉を向けられ、反論も出来なかった。図星だったからだ。
 ゆっくりと見上げた視線は、自然と沙羅さんを捉える。打ち合わせをしているのだろう。撮影を一度終えたらしい朝比奈さんと並ぶ沙羅さんの立ち姿はまさに完璧で、互いにきらきらと輝いている。そんなことにさえ、今ではぎゅっと胸を締め付けた。
 自分自身も誤魔化しきれない。柚にも翼にもタイガ君にも看破されて、きっといずれは沙羅さんにだって。
「タイガ君の、言うとおりだね」
 ぽつりとこぼした私の言葉は、酷く情けないものだった。
「隠しても誤魔化しても、気持ちは変わるわけじゃないのに」
「……」
「どうしてこんなに、恐がりになっちゃったのかな……?」
 それは最近ずっと、自分自身に向けてきた疑問だった。か細く浮かべた笑顔が、曖昧に潮風に溶けていく。
「……くな」
「え?」
「泣くなっ! 俺が泣かせたみたいじゃねぇかよっ!」
 それはまるで、彼の方が泣き叫ぶような声だった。
「あんた大人だろ!? そんな簡単に泣き事言うなよな! 格好悪いぞ!」
 顔を真っ赤にしながらふーっふーっと肩を上げ下げするタイガ君に目を見張る。叱咤してくれているのだと、鈍い私でも理解できた。
「そうだね。格好悪いね」
「ふんっ。俺だってそんな簡単に泣いたりしないぞ!」
「そっか。タイガ君は、やっぱり強いんだね」
 言いながら、自分の帽子を被せた頭をそっと撫でる。すぐに不機嫌を刻んだ顔がこちらを見上げたが、しばらくの間そのまま撫でられていてくれていた。
「俺、ちょっとトイレ!」
 むすっとした面もちを崩さないまま、タイガ君が足早にベンチから下り向かいの道の駅の施設へ向かう。小さな背中を見送った私は、少しずれていた沙羅さんの帽子にそっと手を添えた。
 すでにジリジリと日の熱を集めている帽子の表面に、彼の優しさを感じる。
「沙羅、さん」
「俺の沙羅君がどうかしたか」
「ひ!?」
 知らぬ間に目の前に立ちはだかっていた人物に、ベンチごと身体がびくつく。
 そんな私の姿をも見下すように仁王立ちするその御方は、鼻を鳴らし目を細めた。
「沙羅君には、このプロジェクト参加者は皆敏腕揃いだと聞いていたが……まさかお前が紛れ込んでいるとはな」
「く、日下部先生! その節はご迷惑をおかけしまして……っ」
「ふん。さすがに覚えていたみたいだな。このお邪魔チビっ子め」
 お、お邪魔チビっ子……。
 どうやら、初対面時に邪魔をした告白シーンをいまだ恨んでらっしゃるようだ。
 とはいえ、今となればその怒りようも身に染みて納得できる。せっかく振り絞った勇気を第三者にもみ消されては怒って当然だろう。
 思わぬ異名を授かったらしい自分に苦笑していると、日下部先生は不遜な態度のまま隣にどかりと腰を下ろした。
 盗み見たその横顔はやっぱり美しく、金髪が風に揺れる度にきらきらと光を放っている。
「で? 子どものお守りをさせられてることでも察しが付くが、お前は今回のプロジェクトの主軸ではないのか」
「は、はい! 一応、メンバー全員のアシスタントという位置づけで」
「ふん。それにかこつけて沙羅君に言い寄ってるってことか?」
 タイガ君に引き続き、どストレートな探りの言葉に思わず息を飲んでしまう。
「わっかりやすいなお前。いっそ清々しいわ」
「ち、違います! 今回のメンバー編成に公私混同はありません! ちゃんとプロジェクトの内容を慮った結果で……!」
「そりゃそうだろ。でなきゃ切る。例え沙羅君の頼みでもな」
 足を組み替えながら、日下部先生が海辺に強い視線を送る。現在も続いている撮影班の様子を、真剣に見守っているのが見て取れた。
 それは作品を生みだした──原作者の視線。
「……今回の撮影場所を指定されたのは、日下部先生だとお伺いしました」
 日下部先生の返答も視線も向かないが、先を促しているのが何となくわかる。
「どの場所も、作品の中で特に印象深い撮影場所ですね。この海での語らいのシーンも、凄く胸に残っています」
「プロジェクトの原作くらいは目を通しているみたいだな」
 今回映画化された日下部先生の作品の舞台は、もともとこの海辺の町をモデルとしたヒューマンドラマだった。
 都会の華やかさから逃れてきた男女二人の出逢いと交流。そして別れ。切ないラストシーンには、それでも未来への希望も併せて滲んでいる余韻が深く残る作品で──。
「こんなに気持ちの良い晴れの日は、あの物語の中ではほとんどありませんでしたね」
 すう、と爽やかな風を吸い込む。
「でも、商店の前から小学校まで全力疾走で駆けていくあのシーンは、今日の日にぴったりな気がします。主人公の勢い任せの感情を少し邪魔するみたいな風の強さが」
「……」
「あっ」
 作者ご本人に対して何を偉そうに……!
 ちらりと横目で日下部先生の様子を見遣る。同時に鋭い瞳が自分を貫き、びくっと肩が飛び跳ねた。
「す、すみませんすみません! 個人的な感想を好き勝手に垂れ流してしまって!」
「ああ。不快極まりないな」
 はうあ!
「俺と全く同じ考えをしていやがる。心底癪だがな」
「へ?」
「同じことを聞き返すんじゃねぇよ」
「す、すすす、すみません!」
 とはいえ、今の発言は聞き返したくもなる。
 日下部先生が、私の発言を肯定するなんて。
「ま。小説から見る光景なんざ人それぞれだ。それを否定することはない」
「は、はい」
「だが、小説以外の媒体として起こすとなると、その光景のかい離を埋めなければならねぇ。そこで初めて他人の目から見た光景を見ることになる」
 さらりと吹かれた金色の髪が目映い。
「お前が脚本家か演出家だったら、どんな映画に仕上がったかな」
 その瞳に浮かぶ穏やかな色は初めて見るもので、思わず胸が鳴った。
「……そんなこと。私になんて、到底務まる役割じゃありませんよ」
「はっ。そりゃそうだ」
 吐き捨てながらぞんざいに足を組み替える日下部先生は、どうやらいつもの先生に戻ったようだ。そわそわ落ち着かずに視線をさまよわせていると、何か思い出したように日下部先生が立ち上がる。
「沙羅君は確かに良い男だ。この俺が惚れ込むくらいだからな」
 唐突なギアチェンジについていけず返答できない。
「だが、恋煩う想いをこの仕事に持ち込まれるわけにはいかねぇ。無理ってんなら即刻、仕事は下りてもらう」
 鋭い指摘に、反射的に背筋がぴんとなる。
「俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ」
「……っ、はい!」
 まるで一兵隊のようにお腹から張り上げた私の返答に、日下部先生は不遜な笑みを浮かべて去っていった。

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