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猫は電波のユメを見る

(1)

遺言書
遺言者 平松國子(昭和壱拾年八月七日生まれ)は、遺言者の相続財産について以下の通り遺言する。
一 遺言者が所有する現金預貯金のうち金壱億円を、亡き長女(月影朋子。昭和四拾壱年六月七日生まれ)の子 月影みなみ(昭和六拾年五月壱拾弐日生まれ)に相続させる。
一 前述の現金預貯金を除き、遺言者が所有する全ての財産を、株式会社平松興業に寄付遺贈する。
一 本書の遺言執行者に、弁護士田村敏郎(弁護士登録番号******号、昭和壱拾年壱月弐日生まれ)を指定する。
一 遺言執行者は、遺言者死後速やかに本書の内容を実現するものとし、必要な手続きを執行する権限を有する。……

 死に際までも、さすが仰々しい文章を残したものだ、と私は思った。
 辺りから次頁を擦り上げる音が聞こえ、慌ててその動作にならう。何枚にもまたがる断末魔のような文章。目が焼かれるようだ。
 平松國子――末尾に記された署名に、無意識に指を擦りつける。手元に配られたそれはただのコピーだと知りつつも、生々しい筆跡からは今にも墨の匂いが立つようだった。

「以上が、この度ご逝去された平松國子様の遺言の内容で御座います。相続人及び関係者の皆様、ご不明な点等は御座いましょうか」

 故人は何故、私の誕生日を知っていたのでしょう。弁護士に投げかけたくなった質問は、当然言葉にされることはなかった。

 口にすれば最後、ありとあらゆる質問が止めどなく溢れだす。さらには故人への罵りまで引き出してしまうことは必至だった。
 この家に来る道すがら胸に止めた決意を思い返し、私は深呼吸を吐息に紛れさせた。

「遅くなりました。どうぞ」


 女中さんらしき女性から、こじんまりとした湯呑みを差し出される。見れば私以外の参加者の前には既に用意されていたらしい。私だって指定時間前にはちゃんと到着したのに、と内心悪態をついた。

 熱い湯呑みに指先を一瞬付け、私は真正面に座している人物の視線を確認した。
 記憶の中と違い無く、暑い夏にも着物を纏う。曾祖父から亡き祖母に受け継がれた株式会社平松興業の次期社長、明美叔母様だ。

「こんな僻地までお越しになってさぞお疲れでしょう、みなみさん。さあさ、どうぞ」

「…………いただきます」

 女神のような微笑みに促され、私は湯呑みに口を付けた。

 毒入り緑茶。そんなサスペンスのようなことを本気で考える。
 頼みのつなの弁護士も、座敷の段差に足を取られるご老体だ。私がこの場で絶命したとしても、ドラマのように真相にたどり着くことはまずないだろう。

「……泥棒猫が。よくもまぁのこのこと」


 応接間に漂っていたまどろっこしい空気。それを破ったのは、先ほどから瞬きも惜しんでこちらを睨み付けていた眼鏡の男だった。

 昔懐かしい呼び名に、私は無言のまま視線で応える。嘲りを多分に含ませた反応に、優男も怒りが増長されたらしい。冷静そうな顔が一気に気色ばんだものの、「海藤」という明美叔母様の一声でその勢いは殺がれた。
 まさに鶴の一声。血は争えないようだ。

「……話の腰を折ってしまいましたわね。先生。どうぞ続けなさって」

「は、はあ。いや、どうも」

 誰も決してこちらを見ようとしない。見ている振りをして決してこちらを認めようとはせず、鎌を振り下ろすのを今か今かと待ちかまえている。

 ああ、なんて代わり映えのない。
 お経のようなおじいちゃん弁護士の説明が終わるときを、私は厳粛な表情を保ちながら待ちわびていた。

 

(2)

 これは大した化け猫だわ、と。
 生まれて初めて会った「おばあちゃん」に、明け透けに言い放たれたのは私が五歳の頃だった。
 その一言が褒め言葉でないことは、語彙の拙い娘であっても肌で感じ取れた。
 まだ活力をありありと漲らせていたおばあちゃんの瞳は、吸い込まれるんじゃないかと思えるくらいに真っ黒だった。まるで、マジックで塗りつぶしたように、ギラギラとこちらを監視している。私が吸い込む空気すら、逐一計測しているかのように。

「ご不自由が御座いましたらお申し付け下さい。みなみ様」

 そつなく案内された私は、まごつくことなく正座を整え、退室する女中さんに笑顔で頭を下げた。そして下げたまま、身体を動かすことなく耳をそば立てる。

 数秒後、遠くの床下が鈍い軋みを鳴らしたところで、私はようやく畳の上に脚を投げ出した。首の後ろにまとめていた髪留めを無造作に外し、だらりと横たわる。
 今年で二十八になる自分。まさか再びこの「箱」の中に戻ってくることになんて。
 今も昔も、親なし猫にあてがわれたのは、本家から長くのびる屋根付き渡り廊下のさらに奥。広大な庭をぐるりと通り抜けてたどり着く、この離れの部屋だった。渡り廊下の途中で鳴るほんの僅かな軋みは敵が来たサインだ。
 あの頃の防衛手段が今もこうして身に染み着いている事実に、陰鬱な溜め息を吐き出す。
 それでも身体を満たす懐かしい畳の匂いは、こうも自然に自分を受け入れてくれた。

「……化け猫、ね……」


 バッグから化粧ポーチを引っ張り出す。コンパクトに映し出された瞳はやはり生意気につり上がり、目尻に擦り付けたブラウンの垂れ目ラインは汗ですっかりぼやけている。

 うんざりと鏡を投げ出した私は、鞄から無言で主張しているファイルと目が合った。この一年間必死に書きためてきた膨大な反省文も、今ではただの汚れた紙きれだ。

(来週で打ち切りが決まったから)


 振り切るように視線を外し、壁にはめられた丸窓の先を見る。

 遠くには溢れるほどの緑を敷き詰めた森が壁となり、手前の畑一帯には規則正しくあてがわれた野菜が植わる。植物でさえ意のままに操るおばあちゃんを心底怖いと思いながらも、結局自分もその野菜と大差なかった。
 子供は弱い。だから早く大人になりたい。
 この箱の中ではいつも、それだけだった。

「夏がしつこい……、ばあちゃんみたい」


 悪態をついて再び四肢を投げ出そうとしたとき、襖の向こうに妙な気配をつかまえた。

 上体を素早く起こす。身なりを素早く整えると、外に繋がる襖をそっと滑らせた。

「誰か――、」

「うっ……おあ!!」

 大きくバランスを崩した人影は、健闘も空しくそのまま真っ逆様に落下した。辺りに茂った、まだ若い青葉を辺りにまき散らして。

 一連の出来事に、私は目を点にする。
 あの「軋み」は全く聞こえていなかった。もしかして、渡り廊下の屋根を伝ってきた? こんな長い距離を? 何のために。

「へへ。久しぶり。みなみ姉さん」

「……あんた、誰」
「え」
「え、って」

 こっちが「え」だ。

 この土地に「久しぶり」と慣れ親しむ人間にはまるで覚えがない。
 そうでなくとも、私はこの村にも家に長々移住するつもりもない。記憶の砂塵を掬おうともせず、私は怪訝な表情を崩さなかった。
 そんな私を目を瞬かせて見上げる少年は……多分、高校生だろうか。
 床にヘたり込んだまま、こちらをつぶさに観察しているのが窺える。丸くて少し目尻が上がった瞳に、まとまりに欠ける細い髪が夏風にふわふわ揺れていた。
 まるで、猫。
 思った瞬間、床に腰を着いていた少年が勢い良く立ち上がる。意外に高い身長に仰け反りそうになりながらも、年上の威厳でどうにか踏みとどまった。

「……ふうん。何か、意外」

「何が、意外?」
「もっと、ばあちゃんに似てるもんかと思ってた」

 燃えたぎるような怒りが、視界を真っ赤に包み込む。

 年長者の余裕もはぎ取られ、私は目線を鋭く尖らせた。腹から上ってきた鉛のようなものが喉に突っかかって、酷く気分が悪い。
 そんな感情の吐露を見逃さなかったらしい。驚いたように目を見張った奴は、次の瞬間とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「でも、やっぱ、綺麗だ」


 私の返答を待たず、目の前の少年は引っ付きそうな鼻をようやく離し、軽やかな足並みできびすを返した。


「うちは昔と同じ、十九時から広間でご飯だよ。遅れないでね、みなみ姉さん!」


 嬉々として手を振り駆けていく背中に、若さという名の羽を見た。

 

(3)

 亡き当主の好んだ趣味の悪い外国製の椅子は、予想通り空席のままだ。

「さあさ。沢山作ったから、みなみさんも遠慮なく召し上がってね」


 明美叔母様の一見気遣わしげな言葉に、私は愛想笑いを返す。

 十九時を告げる鐘の音と同時に、広間での晩餐が開始された。
 いいというのに促された私は、渋々当主席の次席に腰を下ろした。自分が幼い頃に座っていた扉前の席は、息を潜めるようにテーブル下に収められている。

「!」


 ふと視線を移した先に、極力目を合わせたくない存在がいることを忘れていた。


 ――やっぱり、この家の人間だったのか。

 小さく眉を寄せた私に、先ほどの少年は怯む様子もなくニカッと笑う。
 無反応を決め込んだ私は、手元のお味噌汁を口に運びながら、向こう岸に列挙している人たちを静かに観察し始めた。
 私の手前の席はおばあちゃんの次女、私の叔母さんに当たる明美叔母様。
 その隣が恐らく明美叔母様の入り婿の叔父様(名前は知らない)。肥満気味の体をそわそわ揺するのを叔母様に見咎められている。
 そしてメンバーの中で一番の下座に座っているのは、先ほどから分かりやすくこちらに敵意の矢を飛ばしている男。昼の集まりでも包み隠すことなく私に悪態をついてきた。明美叔母様が確か「海藤」と言っていたか。
 ということは。巨体と優男に挟まれて座る、あの少年は――。

「和成。貴方はまた野菜を残して」


 うろうろと漂わせていた意識が、明美叔母様の叱責に思わず引き留められる。


「食べれば同じだろ。食う順くらい子供の好きにさせろっつーの」


 そして――続いて返された低い口調に、私は目を見張った。

 一度も母親に目をくれず、「和成」少年は心底煙たげに箸を進める。叔母様もそれを承知しているようで、間に挟まれた叔父様だけがオロオロと可哀想に取り乱している。

「そんなことよりさ。今日の集まりは、計画通りにいったわけ? 母さん」

「かか……、和成!!」

 勢い余って声を荒げたらしい叔父様が、「あ、やべ」というように口元を手で覆う。

 それでも怒鳴られた和成少年は怯む様子を微塵も見せずに、美しい所作で茶を啜る母親の返答を待っていた。背筋に昔懐かしい痺れが走る。
 無知を装った少年の笑顔に、残酷な感情が透けていた。

「――そうですね。万事うまくお話は終わりましたよ。ねえ、みなみさん」


 それに対して明美叔母様は、美しく微笑みを返す。

 肯定の相槌以外、私に何が言えただろう。

「へぇ。そんで、肝心の遺言の内容は?」

「現金預貯金のうち、一億をみなみさんに。他は全て本社に寄付されると」

 予め対応を決めていたらしい。内容は叔母様ではなく、海藤が説明した。叔母様の表情は一時も油断なく、整えられたままだ。


「……なーんだ。たった一億? つまんね」


 前のめりになっていた和成少年が、拍子抜けしたように背もたれになだれかかる。

 一億円――税金で大半が引かれるにしても、身震いする大金だろうに。
 どう育てられればこうも金銭感覚が歪むのか。哀れみの視線を横に遣るも、不敵に口角を上げる横顔に気付き、再び肝が冷えた。

「てっきり『全財産は孫のみなみに』とでも書いてあったのかと思った。馬鹿みたいに慌てすぎじゃね? いくら『みなみさん』がウチを継がずに雲隠れしたからってさ」

「っ、あ……!」

 虚空を鋭く切る白い手に、思わず声を上げる。

 しかしながら次の瞬間、パシッと渇いた音が一帯に響き、私は無言のまま目を剥いた。

「……手を離しなさい、和成」

「いつまでもガキのままじゃないって。そう易々と頬を張られるつもりはねぇよ」
「離しなさい!!」
「ふ。実の母親に一銭も遺されなかったのも、これなら頷けるよな」

 氷が背中に伝うような口調。嘲りの眼差しを向けながら母親の手を離し、和成少年は退室していった。

 目の前に並べられた食卓の色彩は、すっかり褪せてしまっていた。

 

(4)

 私がこの家を脱出したのは、高校を卒業した翌日だった。
 建前で受けた大学。長年住み着いた家。包囲網のようなこの村。飛び出すまでは大きな問題として伸し掛かっていたことが、いざ走り出せばこんなにあっさりと切り離せるものなのだと知った。
 お母さんも……同じことを思ったのかもしれない。
 高速バスに飛び込む。堅いシートに何とか身を馴染ませ、バスの揺れにあやされるように私は瞼を沈めていった。
 あのズタボロ猫の逃亡劇から、もう十年か。

 満月に近い月明かりが、日本画のような庭園一帯を白く浮かび上がらせる。
 植わる木から川を先導する敷石まで計算を尽くされた空間には、いまだ故人の影を落としている。しかしながらその端に、川の流れを外れて出来上がった小さな池があった。
 枝垂れ柳がカーテンのように包んでいるその池は、外の空間とは一線を画している。ここでだけ実ることを許されたように、水に浸る石には所狭しと苔達がへばりついている。
 周囲に取り残されたようなこの池が、私は好きだった。

「……あんたも大概、凄まじいほどの猫かぶりだね。和成君」


 そしてそれはどうやら、奴も同じだったらしい。


「この池、みなみ姉さんも知ってたんだ。俺だけの秘密基地だと思ってた」


 奴の手元に光るスマホの存在に、ここがこの敷地で最も電波の繋がりがいい場所だったことを思い出す。生き辛い田舎町の弊害だ。

 晩餐の時には許されない、紺色のジャージの上下にオレンジのTシャツというラフな格好。月光に照らされた笑顔は初めて離れ部屋で見たときと同じ、年相応の笑顔だった。

「座らないの?」


 一瞬、躊躇する。

 食卓でのいざこざはどうあれ、こいつは明美叔母様の息子だ。どんな息がかかっているとも限らない。逡巡した後、私は少しの距離を置いて手頃な大きさの岩に腰を下ろした。
 池に映り込んだ満月が水面に揺れて、本物よりも数倍眩しく見える。

「どうしたのみなみ姉さん。眠れない?」

「……部屋にいて、いつ寝首を掻かれるかわからないからね」
「ははっ」

 半分本気で口にした私に、奴――和成は楽しそうに肩を揺らした。

 柳の合間から覗く夜空には、数え切れないほどの星が瞬く。それが当たり前の空の下にいることが、今ではまるで信じられない。
 目に、耳に、嫌でも戻ってくる。この家を取り囲む、うざったいくらいの自然の息吹が。

「遺言」


 きた。びくりとなりそうだった肩をぐっとこらえ、静かに続く言葉を待つ。


「一億円って言っても、相続財産の四分の一らしいよ。他の四分の三は子供にも孫にもやらずに、全部会社に寄付」


 それは知っていた。事前にあのおじいちゃん弁護士に連絡して、関係資料を送ってもらったのだ。


「その方が助かる。土地建物を貰っても、私には活用する力なんてないもの」

「……戦わねーの? それで納得すんの?」
「さあね。突然降って沸いたような話だもの。現実味ないよ」
「ふうん……そういうもん?」

 しばらくこちらを横目で窺っていた和成も、気のない私の話しぶりに何か結論を出し終えたらしい。

 気だるげに立ち上がったかと思うと、地面に散らばる小石の一つを池に投げ入れた。いくつもの円が、水面に足跡を描いていく。

「東京って、どんなとこ?」


 唐突に聞かれた。

 純粋な好奇心しか浮かんでいない瞳に、思わずたじろぐ。見ていけないものを見ている気がして、視線を夜空に戻した。「こんなに――、」

「こんなに沢山の星は見えない。その代わり人が沢山いる。少し空気が薄くて、時々、苦しくなる」

「いいところは? ないの?」
「……あるよ。だから、私はここを出たんだもん」

 物が沢山あって困らない。雑誌や新商品の発売が早い。話題スポットにすぐ行けるし、道行く男の子はみんな垢抜けて、女の子はみんな綺麗だ。驚くくらいに自由。こんなところよりもずっと。

 こんなときばかりすらすらと滑舌がいい自分が可笑しい。失敗の許されない本番ではいつも、情けなく震え上がっていたのに。
 まるで他人の口を借りているようだ。

「やっぱ、こことは全然違うんだな」

「違うよ。全然違う」
「いいなぁ」

 相槌に籠もった熱い焦燥を嗅ぎつけ、隣を振り返る。

 その横顔は、月明かりが煌々と照る夜空を見上げていた。その先に果てしなく広がる、空想の未来も。

「俺がガキの時からさ。母さん達はみなみ姉さんのこと、悪い見本みたいに話してたよ。あの子のようになっては駄目だって」


 要らない情報に目を据わらせた私に、和成は無邪気な笑顔を咲かせる。


「俺も、最近まではそう思ってた」

「俺は良い見本になってやる――って?」
「そんなんじゃねぇけど」

 やや強めに返された言葉尻に、不服げな感情が火花を散らした。


「いざ自分がみなみ姉さんと同じ年になってみてさ。初めて姉さんがすげーことをしたんだなって思ったんだよ。家も、家族も、大学も全部捨てて東京に行ったんだろ。そんなさ、一回死んでまたやり直すみたいなこと、俺には出来ないだろうって」

「……!」
「そう思ったらさ」

 自分がすっげー、つまんない奴に思えた。


 焼け縮れた言の葉が、ぽろぽろと紡ぎ落ちていく。

 再び落ちてきた沈黙の最中、ふと闇に茂る森から葉を擦り立てる音がした。まるで水面に広がる波形のように、夜風が広い畑を駆けてくる。
 その足跡を寸前まで見届けて、砂塵が舞う瞬間で素早く目を伏せた。

(こんなの、恐くも何ともないもん――)

 恐怖を目一杯に身体に押し込めながら根比べをする。まだ幼さの残る声が耳をかすめた気がした。

「ねえ。もっと何か話してよ」


 いつの間にかこちらに向き直り、期待に満ちた瞳がきらきらとこちらに瞬いている。

 綺麗な瞳だ。吸い込まれそうなその光に、思わぬ期待をしてしまう。胸に居座る重い物が、もう少し楽な場所へ移動してくれることへの期待を。
 そんな無償の癒しを求めようとする自分が恐くて。

「……私には、家族がいない分、身軽だっただけだよ」


 そもそもここは、私の「家」ではなかったし。そう心の中で付け加え、いまだ風に揺れる池の月を私は無言で見つめていた。

 私のお母さんである月影朋子――旧姓平松朋子は、この家の長女として生まれた。
 既にこの家の覇権を握っていたおばあちゃんに反抗し、恋人と駆け落ちした末に子をなした。それが私だった。
 その後は、まるで出来すぎたように幸せな日々が私を五歳まで育て上げた。そこまでが人生の頂点。そのことを悟ったのは、両親を事故で亡くしたすぐ後のことだった。
 黒い大きな車に乗せられ、黒い服を着た大人達にこの家に連れてこられた――あの日から。

「それに、もともと決めてたの。お母さんと同じく、高校を卒業したら家を出ようって」

「朋子伯母さん?」
「教えられたんだね。私と同じように」

 悪い例を二代に渡って生み出した、本家の恥にして異端の者たち。和成ちゃんはお母さんに似て、いい子に育つのよ――ってか。想像がつきすぎて反吐が出る。

 考えているうちに身体が重く、目の前が必要以上に暗く濁っていくのがわかった。咄嗟にぐらついた身体を引き留める。まだ目眩が残るなか、波が収まったのを確認すると私はおもむろに立ち上がった。
 目の前の、まだどの方向へでも伸びていける若葉を見下ろす。踏みつけるかを逡巡する足をそっと浮かせて。

「少しの勇気があれば、人なんてどこにでも行けるよ」

「……!」
「おやすみ。和成」

 進路を悩む自分の目の前に、ヒーローが現れたとでも思っているんだろう。

 遅蒔きながらの反抗期をこじらせる子供に半端な水をやって、私は離れ部屋へ戻った。
 外界からぽつんと切り離された箱のなかは、何年経っても寒く冷たいままだった。

 

(5)

 一人暮らしを始めて久しいアパートに届けられた文書の中に、自分の名があるなんて思ってもみなかった。
 待ち望んでいた採用通知かと思って封を切った私の心臓は、しばらく凍て付いたままその働きをしていたのかも怪しい。弁護士が当たり障りなくしたためた文書と、別紙として添えられた相続関係説明図が素知らぬ顔をしてこちらを見ていた。
 トーナメント表のように器用に打ち起こされたその図には、もう二度と会うことがないはずだった家族ならぬ家族と共に、お母さんの名前と、自分の名前が列挙されていた。

「相続というのは、財産を手に入れてはい終わり、とはいかないのですよ。みなみさん」

 翌日の朝。朝食を終えた私は早々に昨日の応接間に呼び出された。

 向かった先には、明美叔母様と海藤と呼ばれる男が待ちかまえていた。金箔を施されたティーカップに注がれたコーヒーを並べ、女中さんは静かに扉を閉じられる。
 語るのは全て海藤の役割らしかった。
 多分この海藤というのも、平松興業の重役か何かなのだろう。夫の叔父様を差し置いてこの場に身を置く二人の関係は如何なものか。邪推しかけたものの、刺すように向けられた明美叔母様の視線にそれも霧散する。

「遺産という物は、プラスもマイナスも全て含まれる。今後万一前社長に対する負債の存在が発覚した場合、相続
人は当然にそれを引き継ぐことになります」


「それから、言わずもがなではありますが相続税の申告。こちらも手続きは煩雑で、特に長年にわたって交流のない方にとっては、必要な資料を収集することだけで大変な重労働になると思われます。勿論、可能な限り私共も協力はさせていただきますが――」


 嘘だな。

 こちらのうんざりした視線も構うことなく、海藤はその後も相続するに当たっていかに苦労するかということを、息継ぎも惜しむように語り続けた。
 私は「はあ」「へえ」と適当な相づちを打ち続ける。それを容易く見透かしているような明美叔母様の目からは、始終感情を読み取ることは出来なかった。
 いつもそうだった。私が右も左もわからないままこの家に放り込まれたときも、明美叔母様はただ綺麗に微笑みを浮かべていた。私が目にしてきた明美叔母様はいつもそう。
 それが子供心に可笑しいということはわかっていた。おばあちゃんの次に、私はこの人が恐かった。

「――以上のことも踏まえて、みなみさんはどうお考えですか」

「はあ」

 いけない。唐突に打ち切られた饒舌な説明は、詰め寄り型の質問に色を変えていた。

 一瞬顔をしかめた海藤だったが、次には仰々しく肩を竦める。人を見下した所作が染み着いている人間はどこにでもいるものだ。

「どうかなさいましたか、みなみさん?」

「いえ」

 語気が強い。気遣いに見せかけた苛立ちの発言に、私はもったいぶって答える。


「ご忠告は感謝します。そのご忠告を踏まえた上で、遺言の通り、相続手続きを進めていただくよう、弁護士の先生にもお願いいたします」


 瞬間、鋭利なまでの沈黙が落ちてきて、私の身体を真正面から突き刺した。

 この身の程知らずめ。男の目が何よりも雄弁に私を罵る。
 明美叔母様は相変わらず、こちらを無言で見据えていた。その対応を私が最も恐れ、平伏させるために有効だと知っているから。
 それでも、私は一切引くつもりはない。
 もうあの頃の私じゃないのだ。

「明日、田村弁護士にもその旨お伝えします」

「……貴女は、この家を捨てたのだとお伺いしております」

「海藤」小さく聞き届けた明美叔母様の声。それが昨日の集まりの時と異なり、止める意図が殆どないのは明らかだった。


「今は亡きお母様と同様、平松家を抜けられたわけでしょう。遺言の検認手続きの際も、家庭裁判所に顔すら見せなかった。貴女はてっきり……この相続に興味がお有りでないのだと思っていましたよ」

「……私なりに、田村弁護士から事前に資料は頂いて、考えた末にここに来ました。少なくとも貴方は、今回の相続の当事者ではありませんよね? 海藤さん」
「ッ!」

 だから、ちょっとすっこんでろ。寸分違わず伝わったらしい指摘に、部外者の男は苦虫を噛み潰したような醜い顔で口を噤んだ。

 本音を言えば、いつまでもこの男に喋らせておくのが一番気楽だった。でも、いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。
 か細い深呼吸を済ませ、目の前の相手を対峙しようとした、その時だ。
 軽快に奏でられる拍手の音が、室内に響いたのは。

「ふは。意外に言うねぇ。みなみ姉さんも」

「か、和成君……!」

 狼狽する海藤の視線を追い、背後を振り向く。扉の向こうには和成が、大層愉快そうな笑みを浮かべて壁に寄りかかっていた。

 不快感を隠し切れていない海藤をちらりと見遣ったかと思うと、和成は何故か私の隣に腰を下ろした。これには海藤のみならず、明美叔母様も一瞬瞳が揺れたように思う。

「俺も相続人じゃないけど血縁者だし。海藤のおっさんよりは関係あるよな?」

「……言葉を慎みなさい和成」
「話す相手が違うんじゃねぇの、母さん」

 嘲るように告げた後、和成は背もたれに大きく寄りかかり沈黙を決め込む。高みの見物というわけだ。

 再び、小さく息を整える。

「おばあちゃんの法律上の相続人は――明美叔母様と私の二人です」

「ええ。そうね」

 明美叔母様は、まるで詩を詠む口調で肯定した。


「本来なら、貴女をこんなことに巻き込んでしまうこともなかったのだけど」

「……」

(朋子姉さんが死んでしまって、貴女にはきっと、とても苦しい思いをさせているわね)


 昔からそうだ。明美叔母様は事ある毎に、至極自然にその枕詞を置いて私を慰めた。

 母さんが死んだから。母さんが勝手をしたから。母さんがもう少しちゃんとしてくれたら――。

「ごめんなさいね。朋子姉さんが生きていてくれれば――、」

「母さんは死んだんです、私の目の前で!!」

 机に落とした拳が重く鈍い音を響かせる。じりじり熱を帯びていく痛みが、心臓の鼓動に合わせて押し寄せてくる。

 ゆっくりと持ち上げた視線に、息を飲んだのは誰だったのだろう。

「……私は、家の事情も母さんへの批評も興味はありません。親元の会社がどうなろうと知った事じゃない」

「っ、みなみさん、君も、少しは先代の苦労を……!」
「私は、その古くさい縛りにうんざりしてここを抜けたんです」

 渾身の恨みを乗せた睨みは、口喧しい男の口を塞ぐことに成功したようだった。それでも明美叔母様には、小娘一人の癇癪なんてまるで意に介さない。

 渦巻く激情が方向を見誤って、目の奥がつんとなった。

「俺も高校を卒業したら、ここを出る」


 沈黙の落ちた室内に投げ込まれたものは、予想外の一石だった。


「俺も、やりたいことがある。会社を継ぐつもりはない。認められなくてもここを出ていく。――みなみ姉さんのように」

「和成君……!? 君まで何を、」
「海藤さん。ずっと良くしてもらったのに悪いけど、俺はもう決め――」
「許しませんッ!!」

 応接間に響きわたった叫び声は、もはや泣き声に近かった。

 凪のように決して波立つことのなかった明美叔母様が、今や顔を真っ赤に燃やし、眉間には深いしわが寄せられている。
 私と海藤が圧倒される中、唯一表情を変えなかったのは和成だけだった。それでもその両拳は、固く握られたままテーブル下にそっと隠されている。

「貴方……社長さんになりたいって言っていたじゃない。母さん達が守ってきた会社で、一緒に働きたいって言っていたじゃない」

「一年前くらいにさ。やりたいことが出来たんだ。誰に言われたわけじゃない。俺が見つけた」

 凛と放たれていく言葉に、私は隣を振り向けなかった。見てはいけない気がした。


「だから会社は継げない。もう決めたんだ」

「――この小娘がッ!!」
「っ、きゃ」
「みなみ姉さん!!」

 反射的に目を瞑ったと同時に、何かが自分の頭を掠めた。次の瞬間、室内に弾けた耳をつく音に、咄嗟に背後を振り返る。

 視線を向けた先には、先ほどまでティーカップだったものが、見るも無惨な金色の破片と化していた。
 壁にべっとりと染みついたコーヒーが、吹き出した血のように激情の跡を残している。
 心臓が、音を立てて凍り付いた。

「大丈夫か、みなみ姉さん……っ、何してんだよ母さん!!」

「それはこちらの台詞です!! みなみさん……貴女が和成をそそのかしたのでしょう!? 一体どれだけ私を苦しめれば気が済むの!! 姉さんもこの娘も、とんだ疫病神だわ……!!」
「社長、どうか落ち着いて……!!」

 般若のような表情。もう一つのティーカップもこちらに投げつけようとする明美叔母様を、大慌てで海藤が止めに入った。

 いつ飛んでくるのかも知れないカップを眺めながら、目の前の光景がまるで、遠い世界の出来事のように思えてくる。

「……無様」


 いまだ格闘を続けるいい大人二人と、それを内心冷や汗を掻きながら見ている子供。鼻で笑うと、心の奥にひびが入る音がする。それを気付かない振りをして、私はすっと席を立った。


「私は、私の貰うべきものを貰いに来ただけです。貴女たちと戯れに来たんじゃない。失礼します」

「……飢えを凌ぎにきた、の間違いでは? みなみさん」

 きびすを返しかけた私の身体は、半端な角度のままぴたりと止まった。動けなかった。先ほどの私と同様、鼻で笑う気配がする。海藤だ。


「興信所を雇わせてもらいました。貴女は本家を抜けられた後、地方テレビ局のラジオ部門に契約社員として採用されたそうですね。そして昨年と同様継続されるはずだった契約は、今月末で更新を見送られた……と」

「……え?」

 驚くほど間の抜けた声をあげたのは、和成だった。


「え……だって、みなみ姉、MCを担当してるラジオ番組があんじゃん。水曜の夜、十時五十分からの。その番組は――」

「今月一杯で他の方に引き継がれるらしいですよ。地元では知名度も高い、帰国子女の女性だと伺っております。音楽にも精通している。みなみさんとは……」

(君とは、比べる必要もない人材だよ)


 契約社員だからって、手を抜いた事なんて一度もなかった。社員からの鬱陶しそうな目も全て飲み込んできた。

 だって私には、それしかなかったから。
 そして雑用から少しずつ現場に近い作業まで任されるようになったある時、深夜のたった五分間のコマを任される機会に恵まれた。
 今まで張り付くように研究を続けてきた、ラジオMCの仕事。
 長年育んできた理想像を、実現しようと必死だった。与えられた五分間の録音を帰宅後何度も聞き直しては、自己分析と反省を繰り返した。
 五分間から十分間。深夜枠からより視聴者の多い枠へ。何より――視聴者の人達から送られてくるハガキの一枚一枚に、私は律儀に咽び泣いた。
 そして確信した。あの家に縛られずに生きる。あの決断は、決して間違ってはいなかったと。

「同種の就職先を探しているようですが……なかなかうまくいっていないようですね。そんなときに知らされた多額の遺産……なるほど。まさに、喉から手が出るほどほしいわけですが」


 しかしながら――子供の無邪気な確信とは裏腹に、現実はどこまでも残酷だ。


「結局貴女は、本家を頼らずには生きられない人間だ」

 

(6)

「みなみ……姉さん」

 目の前で水面を揺らす池は、いつの間にか傾いていた紅蓮の夕焼けを映し出していた。 腫れ物に触るような遠くからの呼びかけが、まとわりつく糸のように煩わしい。

 手のひらに収まるそれを膝に置き、無言のままチューニングを指で撫でていた。
 母さんの荷物から見つけて以来ずっと大切にしてきた、携帯ラジオ。
 独りぼっちだった自分に唯一優しく語りかけてくれていたそれからは、今はもう、砂嵐しか流れてこない。

「……夢を追いかけるのは、難しいよ」


 ぽつりとこぼした言葉は、まるで自分のものじゃないみたいに素直なものだった。

 片意地を張って強がって、一人で生きてきたこの十年間。それが今では、未成年の従姉弟相手に丸まった背中を晒している。
 燃えるような夕焼けだ。いっそのこと、この辺一帯を焼き尽くせば良いのに。

「……俺さ。ここ一年、この場所でずっと、みなみ姉さんのラジオ聴いてたよ」


 ゆっくりと顔を上げる。視線を向けた先に、夕焼けで赤く照らされる和成がいた。


「話し方も癖がなくて、肩の力が自然と抜ける。選曲もいつも懐かしい。優しい思い出に浸れるって……そう思う」

「そっか」
「……好き、なんだ。みなみ姉さんの声が」
「……そっか」

 少しだけ、胸が温かくなる。

 慰めの言葉に対してではない。慰めの言葉を死に物狂いで探している従姉弟の姿に。
 それでも感情の根本は決して上向くことはなかった。

「和成は――そっくりだ」

「え」
「家を出たときの私と。目元なんか、本当に似てる」

 それは、この家に来て初めて和成と会ったときから感じていたことだった。だからこそ目を合わせられなかったのだ。


「……似てても不思議ないだろ。双子の母を持つ従姉弟同士だし」

「私からすれば、母さんと明美叔母様は全然似ていないけどね」
「性格が真逆だってのはわかる」

 短く笑った和成に、私はじいっと見入っていた。

 軽やかに風に揺れる猫っ毛も、意地っ張りな眉も、ただ前しか向いていない瞳も。涙でどろどろに顔を汚していたあの頃の自分と重なるように思えてならない。

「なんだよ」


 凝視されていることに気付いた和成が不機嫌そうに目を逸らす。ごめんね。短く告げた。


「ヒーロー像、崩しちゃったね」

「……」
「ごめん。ね」

 最後はもう、情けなく掠れた声色だった。

 和成に謝りながら、その姿に重なるもう一人に謝っていた。馬鹿みたいに夢だけを見つめていた自分の残像に。だって、覚悟を決めたはずだったのに。
 高校を卒業したあの日――この家に来て初めて、おばあちゃんと言い争った。
 家出なんて言えば格好が付くが、実際は追い出されたも同然だった。
 振り返らなかった。本家の門前に、おばあちゃんがさも愉快そうに眺めているのを知っていたから。
 数日中に尻尾を巻いて帰ってくる家出猫の姿を、嬉々として想像していることだろう。大きな鞄をたぐり寄せる。弱気に眉が歪んだのを、大きな空を仰いでやり過ごした。
 私は絶対、あんたの思い通りにはならない。

「正直……ここに何をしにきたのか、自分でもわからないんだ」


 一億なんて途方もない金、手にしたところで人生の歯車をかけ間違えるのは目に見えていた。財布の福沢諭吉の背後に、おばあちゃんの姿を見ながら過ごすなんて真っ平だ。

 まるで現実味のない手紙を見下ろしながら、それでも私は、頭の中でこの村へ向かう算段をつけ始めていた。

「帰りたいって、思ったの」

「……」
「帰りたいって。この十数年間、一度だって思ったことはなかったのに……っ」

 溢れる涙が、頬にだらしなく痕を残していく。

 拭う手の甲がすぐに足りなくなり、私は膝と頭をまとめて抱き抱えた。

「崩れてねぇよ」


 生温いはずの夏風が、濡れた手にひやりと冷たい。


「ガキの記憶だけどさ。格好良いって思ったんだ。この家に背中を向けてどんどん進んでいく姿が……格好良いって」

「……か、ず」
「ばあちゃんがどういうつもりであんな遺言を遺したのかはわからねぇけどさ」

 肩を竦め、和成は空を見上げた。いつの間にか空に瞬き始めた星たちが、天の川のように淡く空を横断して、今にもこぼれ落ちそうに溢れている。


 ――皆さんなら、星たちにどんな願いを託しますか――

「え?」こちらに振り返った和成に、私は気付かない振りをした。
 この星空を持ち帰りたい。あんまり自然にそう思って、私は笑った。
 狭くて古くて可愛げのない――それでも小娘一人を包み込むには十分な、私の家へ。

 

(7)

 次の日、私は一人、弁護士事務所へ立ち寄っていた。

「平松殿はねぇ。きっと貴女に、自責の念がおありだったのだと思いますよ」


 おじいちゃん弁護士は、今後の手続の説明をあらかた終わらせた後、哀愁漂う溜め息をついた。例の遺言書をいつまでも感慨深げに眺めている姿は、まるで恋文でも読んでいるかのようだ。


「私にはそうは思えません」

「……遺留分、という言葉をご存じですか」

 いりゅうぶん。漢字変換もままならないその単語に、私は首を横に振った。


「例え遺言であっても侵されない、相続人の権利です。今回では、明美様とみなみ様に各々四分の一の遺留分の権利――つまり、約一億円の財産を主張できる権利があるのです」


 一億円。それはぴったり、私にあてがわれた金額ではないか。


「この度の遺言で、平松様は明美様に財産が遺されませんでしたが……明美様にも、いざとなれば遺留分の請求が可能なのです。但しそれは、貴女の遺留分を侵すものであってはならない」

「……すみません、ちょっと意味が……」
「他の誰にも侵害されることのない、争いの火種を生まない一億円という財産を、おばあさまは貴女宛に託されたということですよ」

 仏様のような、慈悲深い微笑みで説明するおじいちゃん弁護士の言葉に、私はしばらく言葉を失った。

 しかしながら、そんなことで歩みを止めるわけにはいかない。私は鞄から取り出した自身の認め印に朱肉をつけ、真っ直ぐ書類におろした。
 上下左右歪みのない、美しい印影だった。

「みなみ様……差し出がましいとは存じますが、」

「おばあちゃんは――私を家に連れ戻す手段として、この遺言を遺したんですよ」

 故人の真意は、今となっては誰にもわからない。でも、私はそうに違いないと思っている。

 私の母さんと同様、本家に戻ることを選ばなかった私への、苦し紛れの当てつけだったに違いない。
 創業者の娘という壮絶な生きざまを物語る毛筆に、そっと視線を落とす。胸が透く思いがした。

「では……宜しいのですね」

「裁判所への手続き、宜しくお願いします。必要な書類は追って郵送しますので」
「承知しました。明美様へのこの手紙も、必ず」

 今朝この事務所を訪れ、真っ先に手渡した白い封筒。

 それを恭しく手にする先生と初めて笑みを交わし、私は事務所を後にした。

「やっぱ、日差しがすご……」


 村で唯一のバスターミナルは、昔も今も閑散としている。

 停泊していた高速バスに素早く乗り込み、肌を刺すような日差しをカーテンで遮った。十年前より幾分座り心地の良いシートに腰を沈め、ようやく一息つく。
 こちらの用事も終えた。あとはまた一からの道を作っていくだけだ。
 十八歳の私で出来たことが、二十八歳の私に出来ないことはない。
 あの手紙を明美叔母様がどう扱うかは、考える必要もないだろう。開き直りにも似た心地で、せめて昨夜書き上げた手紙が、無事に読み切られることを願う。
 私、月影みなみは、本日相続放棄申述手続を田村弁護士にお願いいたしました。今後私は相続関係から離れ、手続きは明美叔母様に一任させていただきます。
 また、私自身の勝手な希望として、放棄させていただいた一億円につきましては――。

「……?」


 歌だ。

 目を瞑っていた私の耳に微かに届いたメロディー。それはまだ深夜枠の番組を任されていたときに何度か流していた、私の大好きな歌だった。
 エンジンが掛かり始めたバスに揺られ、慌ててカーテンを横に引く。眩しく広がったバスターミナルのど真ん中には、顔を真っ赤に染めながら、歌を歌い続けている若者の姿があった。呆れるほどに頑固な意志を内に秘めた、大きな吊り目と視線が合う。
 吹き出したはずの口が、微かに戦慄く。本当、こんな馬鹿なところも、よく似てしまったね。

「――もっともっとたくさん歌いな!!」


 開閉の出来ない窓の向こうに向かって、私は叫んだ。


「私の番組で、紹介して恥じない歌手になってみろ!!」


 最後の方は、走り出したバスの音でかき消された。それでいい。今度はきっと、見えない電波の糸に繋がれるはずだから。

 他の乗客からの怪訝な表情を無視して、再びシートに腰を埋める。
 遠ざかっていくこの地を、今度こそ目に焼き付けておこう。
 お天道様の光を一杯に含んだ光景を見つめる。それはまるで、夢のように美しい光景に思えた。

end

 

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