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ウオノメにキス

 第一章 新刊、宣言、挑戦状。

 小野寺(おのでら)さんって、意外と美人だよね?
 中学時代、女子に一番人気だった男子から告げられた一言。思えばあれが、全ての始まりだったように思う。
「小野寺さんっ、その……お疲れさまです!」
「お疲れさま。論文、頑張って」
「は、はい!」
 端的な返答と営業スマイル。それに容易く色めき立つ男子数人の様子を背に、私は素知らぬ顔で階段を下っていった。
 図書館司書の「小野寺(おのでら)杏(あん)」に声をかけることができた勇者は、仲間から飲み物を奢られる。ケツの青い男子学生の賭けの対象になっていることに、いつまでも気付かない私ではない。
 歩みを早めながら、仕事中結っていた髪にさっと手櫛する。跡が残らない自分の髪質に感謝し、先を急いだ。
 開かれた自動扉の先では、大きな夕焼けが出迎えてくれる。この日をどれだけ待ち望んでいたことだろう。
 一気に階段を駆け下りる。就業時間ギリギリに終わらせたブッカー作業も主任が小言を言い出すタイミングも、全て見計らってタイムカードを沈めてきた。全てはそう。今日の日のために。
「おい。あれ」
「うわ、すっげー美人」
 すれ違いざまに投げかけられる学生からの称賛の言葉も、別に珍しいことではない。
 それでも今日一日は周囲からの視線を感じ取るたびに、いつの間にか緩んでいた口元を慌てて引き締めることを繰り返していた。
 ああダメだ。せめて大学近辺では、高潔なイメージを保たなければ。
 信号に引っかかり、向かいのビルの窓に映し出される自らの姿を眺める。
 平均より幾分抜きでた長身。春風に控えめに揺れる長い黒髪。いつも何かを主張し続けている少し生意気そうな瞳。
 それでも今日ばかりは、勝気な瞳にも子供のように抑えのきかない喜びが色濃く滲んでいた。まあ、それも仕方ないと思いたい。
 なにしろ三ヶ月前から、今日という日を待ちに待っていたのだから――。

   ***

「惜しかったですねぇ」
 お日様のように朗らかな言葉に、私は呆然と立ち尽くしていた。
 職場のM大図書館とは違った色彩で本が息づく場所。勤め先から十分もかからない駅直結のこの書店に、私はほぼ毎日通っていた。
 いつもは職場に発注する本選びが目的だったが、今回は違う。
 今日は、私の大好きな小説家の新作発売日なのだ。
 最近ではこの作家の作品がメディアに取り上げられることも多くなり、前々からこの書店にも新作発売日が大々的に記されていた。それを知った瞬間に、私は新作の予約手続きを済ませた。
 かなりの冊数を入荷するであろうことも予想通り。現に今だって、目の前には平積みされた新作の表紙が綺麗に顔を揃えている。
 跡形もなく空になった……直筆サイン入り新刊コーナーの傍らで。
「いやあ。お客さん、この作家さんのことご贔屓にしていたでしょう? サイン本のことを教えて差し上げたかったんですが、当日になるまでお口にチャックと言われておりましたものでねぇ」
「……いつ、売り切れたんですか」
「いや~本当に惜しいッ! ついさっきなんですよぉ。ほら今レジに並んでる、あのお客さん」
 爪がまん丸に詰められた店長の指さす方向に、ゆらりと視線を向ける。
 同世代くらいの男だった。深く被った帽子に、後ろから顔を出している癖の付いた茶髪。ちらりと見えたおしゃれ眼鏡。似非インテリ男か。この野郎。
 遠くの手中には「著者直筆サイン入り!」と記された新刊が何食わぬ顔でこちらを向いている。しばらく呪詛の視線を送ってみるも、男はこちらを振り向く素振りすらなかった。
 まぁしかし、私も行動慎む一般社会人。レジで既に精算を始めたインテリ男(仮)の肩を掴んで「それを譲らないと一生恨みますよ」と詰め寄るわけにもいかない。
「で……残りの在庫は?」
「へ?」
 なので代わりに、目の前の朗らか店長の肩を掴み上げることにした。
「あ、あの、ちょ……」
「納品データを今すぐ見せて下さい。出し惜しみしてんじゃないでしょうね……?」
「ひいっ!」
 耳元で吹きこんだ脅迫に、店長の首筋がさあっと青くなる。
 この作家は、メディアに取り上げられることこそあれ、自身が姿を現すことはない。
 だからこそ、大好きな作家との数少ない触れ合いを逸したくないと思うのは、ファンの域を越えているのだろうか。抑え切れない怒りが変に目の奥を刺激しているのもやっぱり可笑しい? これだから活字オタクはとでも? ええその通りですから全く構いませんが!
「あ、あああ、あのっ、お客様、どうか落ち着いて……!」
「昨日もこの店に来ましたよね私。寧ろ新作についても、観賞用・保存用・布教用の三冊分ちゃんと予約出来ているか確認もしましたよね私! その時に少しくらい耳打ちしてくれても良いじゃないですかっ? 大体サイン本なんて滅多なもの手に入ることくらい、随分前から分かって――……」
 次の瞬間、続くはずだった不条理な怒りが喉の奥に溶けていった。
 とある書籍の表紙が、突然目の前を覆ったのだ。
 星たちが微かに瞬く町に、立ち尽くしたふたりの影が描かれた装丁。
 問題の、新刊の表紙だ。それも。
「サイン入りの……?」
「どうぞ。お譲りします」
 頭上から落ちてきた言葉。咄嗟に振り返り、声の主に私は目を見開いた。
 さっきのインテリ男――口に出そうになった言葉を喉の奥に押し止める。
 先ほどまで被っていたはずの帽子は手中に収められていて、胡散臭さは幾分か薄れていた。白く手入れの行き届いた肌に加え、眼鏡の奥からかち合った眼差しは意外にも紳士的に見える。
 一瞬呆けてしまった私だったが、手渡された書籍の重みで我に返った。
「俺は気紛れに買ってみただけだから。貴女の方がよっぽど、持ち主にふさわしいです」
「……っ、どうして」
「俺は貴女ほど、この作家に熱を上げられないから」
 まるで何かを赦すような、爽やかな微笑み。私は不覚にも、顔に熱が帯びるのを抑えられなかった。
 思えばここは職場の近くなのだ。人目がある場所で、自制も効かず書籍に熱を上げて暴走する。今までも数え切れないくらい反省してきたのに……!
 視界の端には助かったと言わんばかりに額の汗を拭う店長。その背後からちくちくと送られる好奇の視線に見知った人物がないことは不幸中の幸いだった。
「あ、あの! お譲りいただいて、ありがとうございます……」
「うん。こちらこそ」
 こちらこそ?
 脳内で疑問符が浮かんだのと、男が背を向けたのはほぼ同時だった。
 男の姿が人混みにかき消されたのと、代金を渡し忘れたのに気付いたのもまた、ほぼ同時のことだった。

   ***

 新作に灯された昂ぶりが、いまだに胸をくすぶり続けている。
 待ちに待った新作とともに過ごした、素晴らしい夜だった。これだから一夜漬けはやめられない。
 外に出ると、眩しい日の光は既に頭上にいた。私は堪えきれない感動を携え、最近行きつけのとあるお店にたどり着く。
 二ヶ月前に自宅近くに出来た喫茶店、「カフェ・ごんざれす」。
 木目の温かい扉にぐっと力を込めると、遠くからせわしなく床を引っ掻く「あの子」の足音が近付いてくるのが分かった。来客を告げる鐘の音が、耳に懐かしく響く。
「ゴン! ストップ!」
 飛びかかる寸前で投げかけられた命令に、ぴたりと動きを止めるのはさすがだ。それでも好奇心が溢れる彼の息遣いに、私は顔を綻ばせながら手のひらを毛並みに沿わせる。香ばしい太陽の香りがした。
「こんにちは、栄二(えいじ)さん」
「小野寺さんでしたか。どうぞお好きな席に」
 互いに親しみを込めた会釈とともに、カフェのオーナーである栄二さんと笑顔を交わす。
 看板犬であるゴールデンレトリバーのゴンちゃんも、満足げに頭を撫でられていた。その後、彼は入り口付近で何か思案する様子を見せた後、日光が一番に射し込む場所で丸まるように座り込む。
 店内を進むと、時折きしりと床板が音を奏でた。レースカーテンに上部を薄く遮られた日光が、一面を優しく照らしている。細く開けられた窓の隙間からは春風がきらきらと流れ込み、店内の時間を控えめに進めていた。
「カフェモカのホットをお願いします」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
 目尻を下げて向けられる栄二さんの笑顔に、ほっと心が和む。
 コーヒーの芳香が立ちこめるなか、向かいのガラス棚に映る自分の姿が目に留まった。
 少し開きすぎている前髪をさっと整える。勤務時と比べれば多少気を抜いた今日の服装も、シンプルを十分着こなせていた。
 職場で「仕事が速い」と評判の自分が、同時に「可愛げがない」と囁かれていることを私は知っている。それでも構わないと思っていた。
 私が好きと思える私で生きる。もう随分前に、そう決めたのだから。

(小野寺さんって、意外と美人だよね?)
 中学時代、女子に一番人気だった男子から告げられた一言。
 それは冴えない一人の女子中学生の日常を吹き飛ばす、酷く無邪気な爆弾だった。
 幼い頃から私は、本に魅せられて育ってきた。
 おじいちゃんから途切れることなく与えられた本に夢中になり、周囲が恋に友情にいそしむ中で変わり者扱いされ、私もそれを甘受していた。
 最中、あの爆弾発言だ。その後の推移は想像にかたくないだろう。
(いい気になってんじゃねーよ)
 クラスのリーダー格だった女子から言い放たれた言葉に、反論はしなかった。
「自分は意外と美人らしい」。その認識を得た自分は、確かにいい気になっていたのだ。
 その後、元来の負けず嫌いも相成って瞬く間に構築されたものは、人目を引きながらもそつなく世渡りをこなす術。
 それが好き放題に高じた結果、今の自分が確立された。

「ね! 言ったでしょ? 今度は間違いなく当たりだって!」
 浮き足だった若い子たちの会話に、唐突に現実に引き戻される。視線を向けると、学生らしき女の子たちがお喋りに花を咲かせていた。自分とは1オクターブほど高い話し声。私には一生縁遠いものだ。
 鞄から、明け方読み終えたばかりの新刊を取り出す。口元に微笑を浮かべ、表紙の作家名を指でなぞった。
 とっておきの書籍を手に入れたときは、一夜読みをしたあと決まってこの店の戸を開ける。そして身に沁み入るようなカフェモカの甘い苦みとともに、再度物語に浸るのが習慣になっていた。
 さて、もう一度物語の世界に旅立つとするか――。
「お待たせしました。ホットのカフェモカです」
「っ!」
 するりと耳に入ってきた声に、思わず肩が跳ねた。
 手にしていた本を一瞬宙に浮かせてしまい、慌てて手中に収める。危ない。購入二日目で装丁を汚すなんて、司書としてもファンとしても失格だ。
「っ、すみません。こちらに置いてもらえますか?」
 らしくない羞恥を隠すように、少々早口で告げる。
 そこでようやく、カフェモカを運んできた人物が栄二さんではないことに気付いた。
「いえ、こちらこそ驚かせてしまいましたね。すみません」
 栄二さんの単独経営かと思っていたけれど、他の従業員もいたのか。
 目の前の青年が、少し困ったようにはにかむ。思わず加護欲がくすぐられる微笑みが浮かべられた途端、突如背後から黄色い歓声が上がった。
ああなるほど、と私は思った。あの女の子たちの話題の主はこの青年だったか。
 栄二さんより幾分か若く映る彼。ウェーブのかかった髪が、日の光に照らされて眩しい。一瞬女性とも思わせる物腰の柔らかな空気は、ウェイターにぴったりだと思った。
 しかしながら……何だろう。微かな胸騒ぎが、さざ波のように迫ってくるのを感じる。とても嫌な、胸騒ぎが。
 涼しげな薄茶色の瞳と目が合う。
 そこにふと、かけていないはずの眼鏡が透けて見えた気がして――私は息を呑んだ。
「どうぞごゆっくりお過ごし下さいね」
「……、はい」
 ああ、終わった。懇切丁寧に接客していただいた青年の背中を、私はぼう然と見送る。
(俺は貴女ほど、この作家に熱を上げられないから)
 似非インテリ男。あいつだ。間違いない。
 よりによって、こんなところで再会するなんて……!
 昨日の書店で見せてしまったファン根性丸出しの醜態が、色濃く脳裏に蘇ってくる。
 唐突な再会に思考停止した私は、ひとまず読書で心頭滅却を試みる。そしてすぐに手元の書籍が問題の「譲り受け品」だと気付き、思わず天井を仰いだ。
 失態の目撃者が勤める場所に臆面なく通えるほど、私の面の皮は熱くない。
 ああ、このカフェに来るのも、これが最後か――。
 短い期間ではあったものの心の拠り所になってくれた店内を感慨深く眺め、最後の晩餐とばかりに温かなカフェモカにゆっくり口を付ける。
 目の前に揺れる甘い香りが、脱力した自分を慰めてくれている気がした。

 ところがどっこい。
 新刊の二度読みを終えた私は、すっかり居直る決心を固めていた。
 本の世界に浸りながらも、区切りごとに似非インテリ男の動向を観察し続けていた。栄二さんほどの距離感はないものの、客と店員の一線はきちんと引いているらしい。
 加えて、私の見る視線には昨日の出来事を嘲笑する気配はみじんも感じなかった。どうやら私のことを覚えてないらしい。
 昨日のアレは事故だ。いつまでも引きずっているのは性に合わない。
 互いに大人だし、アレが引き金になって何が起こることもないだろう。
 いつの間にか日がとっぷりと暮れ、他の客は既に精算を済ませていた。窓の向こうに薄く浮かぶ下弦の月が、心許なげに自分を見下ろす。本を鞄に丁寧にしまった私は最後の客として席を立った。
 レジ応対をしてくれたのは、有難いことに栄二さんだった。
「ごちそうさまでした。すみません、ぎりぎりまで居座ってしまって」
「お気になさらず。また、いつでもどうぞ」
 床で目を伏せていたゴンちゃんも、店員のひとりとして扉まで見送ってくれた。尻尾を振るゴンちゃんを優しく撫で、ドアの鐘の音に背を向ける。
「はー……息、白っ」
 四月の下旬でも、この北の大地の夜はまだまだ肌寒い。上着の首裾を集め、静かな街並みに靴音を響かせる。
 あの男はもう勤務を終えたのだろうか。短時間勤務なら、なおのこと気に病む必要はない。
 冷えてきた耳を両手で包み、家路を急ごうとした矢先だった。
「お客さん!」
 ぎょっとして振り返った私は、白い息の向こうに長身の人影がぼんやりと浮かび上がるのを見た。
 奴だ。上着もなしにぱたぱたと駆け寄ってくる人影に、すぐさま厳重警戒態勢に入る。
 店から出た頃合いを見計らって、何か変な脅しをかけるつもりだろうか。そうなったら仕方ない。しらを切り通すまでだ。
「良かった。いつの間にか、帰られていたので」
「……長い間居座ってしまいましたからね。ごちそうさまです」
 当たり障りのない会話を交わす。それでも、今の私の目は笑っていないだろう。
 それに気付いているのかいないのか、目の前の男は心底嬉しそうな笑顔を咲かせた。街灯に照らされた白い肌に、頬の色がほんのり浮かぶ。何だ。この男。
「どうぞ、これを」
 手渡されたのは、手のひらサイズのカード。「カフェ・ごんざれす」と記され、裏面には小さな案内文とQRコードが印刷されている。
 思わず怪訝な顔を浮かべてしまった私に、男は照れくさそうに頭を掻いた。
「うちのカフェのショップカードです。今日ちょうど搬入されて」
「はあ」
 何ともいえない空気の中でひとまずカードの文面に視線をやる。いつも気紛れに足を運んでいたが、どうやらお店は不定休らしい。QRコードで開店情報を確認できるようになっているようだ。
「また来て下さいね」
 自動車が行き交う音が、遠くに聞こえる。
「そのとき、ゆっくり自己紹介をさせて下さい。きっと」
 星たちが微かに瞬く町に、立ち尽くしたふたりの影。
 それはまるで、あの人の新作の表紙のようだと、浮遊するような意識の中で思った。

   ***

「……コンシーラー、使う?」
 愛らしいおめめの下に染み着いた、青い魔物。
 待ち合わせ場所で思わず発した私の提案に、久々に顔を合わせた奈緒(なお)はふにゃりと顔を歪ませた。その顔はもはや、笑顔なのか泣き顔なのかも分からない。

「もう! まったく! やってられないよ! 呆れてしまうよ奈緒さんは!」
 社会の理不尽に憤慨する叫び声が、居酒屋の喧騒になじんでいく。
 ビールという名の燃料を補給した親友は、小さい身体をいっぱいに使って日頃の鬱憤を吐き出し始めた。
 うんうんと頷きながら、私は素早く店員を呼び止め食べ物の注文を済ませる。小動物に、好物のレバニラと枝豆を与えてやらねば。
「あの上司もねー、要領が悪いの。わかる? 変に手を加えられてから渡されたら、こっちも事務作業がスムーズに進まないの。それなのに自分のことは棚に上げてもっと速度上がらないのかとか何とか言っちゃってまあ!」
「ほう。それじゃ、ようやく会社を辞める決心が付いたのかい? 奈緒さんや」
「……むう」
 むうむう唸りながらテーブルに頬を付ける。そのひんやり冷たい感触が気に入ったのか、次第に奈緒の表情が解れていくのが見て取れた。居酒屋内の味わい豊かな熱気の中で、栗色の髪がふわりと揺れる。
「杏はいいなぁ。大好きな本に囲まれて仕事が出来て」
 ぽつりと落とされた呟きは、いい具合に酔ってきたサインだ。私は目の前の子リスから、お酒をそっと離してやった。
「図書館司書だってそんな甘い世界じゃないよ。女だらけで気ぃ遣うし、肉体労働メインだし」
 言いながら私自身、新人一年目の頃に山のような蔵書をブックトラックごと床にぶちまけた記憶がある。あれは黒歴史のひとつだ。
「それだって好きなことだから頑張れるんでしょー。いいよな、私なんてしがない一般企業のOLだもん」
「はいはい」
 本当は諦めてないくせに。
 奈緒の携帯電話の待ち受けが、密かに自作のイラストになっていることを私は知っている。
 中学の頃から唯一交流があった彼女――鈴枝(すずえだ)奈緒(なお)は、出会った当初から絵を描くことに心を奪われていた。
 本が好きなだけの私とは違い、奈緒は絵を描いて、それを見たみんなに様々な感情を与えることを求め、望んでいた。
 だからこそ、奈緒がイラストと何らかかわりのない一般企業への就職が決まったときは、周囲が祝福する中、私はただ口を噤んでいた。全てを飲み込んだような寂しそうな笑顔が、今でも脳裏に焼き付いている。
「ま。その上司が本当に嫌だってんなら、どうするかは自分で考えることだわね。ちっちゃくても、もう大人なんだから」
「むーっ、杏の鬼!」
 おかわりっ! 私が酒とすり替えたソフトドリンクを掲げ、小さな酔っぱらいが声を張る。注文を受けた店員の背中をぼーっと見つめながら奈緒は肩をひとつ鳴らした。「というかね」
「最近は仕事一色で、私生活がどんなんだったか分からなくなってる気がするの。色恋沙汰も話で聞くばかりだしさぁ」
「格好良い先輩がいるとか言ってたじゃん?」
「だめ。既婚者だし。そういう杏は? ピチピチの男子大学生に可愛い子とか~、教授陣に知的な誰それとかさ。いないの?」
 期待に満ちた瞳に、肩を竦める。
 浮ついた目線でこちらを見る男子学生なんて恋愛対象にならない。教授等は論外だ。私たち司書を小間使いとしか見ていない。
「ああ、そういえば。最近うちの近所に新しいカフェができたんだけど。そこの店長さんはいい人だよ」
 ハンドメイドに目がない奈緒のことだ。あのカフェもきっと気に入る。
「カフェ? いいねいいね、なんて名前?」
「『カフェ・ごんざれす』っていう店なんだけど、いかにも奈緒が好きそうな感じ。今度連れてってあげるよ。店長の栄二さんは誠実そうで印象良いよ。カフェ自体読書するにもうってつけだし、最近もあそこで新刊を――、」
 途切れた台詞。すでにアルコールに浮かされている奈緒は、こてんと首を傾げるだけだったが、私は知らずのうちに眉を寄せていた。
(また来て下さいね)
(そのとき、ゆっくり自己紹介をさせて下さい。きっと)
 ああ。とても面倒くさい。
 真意の掴めない、やけに澄み切った声色を頭によぎらせ、私は目の前のリキュールを喉に流し込んだ。

「ふふふ~ん~。あーんちゃんはぁ~……むにゃ」
「変な歌を歌うな。ちゃんと歩きなさいってば奈緒」
 薄く雲が敷かれた夜空が、ぼんやりと私たちを見下ろしている。
 私は陽気な足取りの親友を引き連れ、彩色の眩しい夜の町を進んでいた。道路を行き交う車のテールランプが視界にぼんやりと線を引く。
「杏はぁ」
「だーから、変な歌は、」
「ズルい」
「あ?」
 子リスがまた妙なことを言い出した。
 今度ははっきりと「ずーるーいー!」と癇癪を起こした子リスに、頭が痛くなる。このまま捨て置いてやろうか。
「だってさー。私なんて仕事ばかりでしょぼくれてばっかなのに……杏は違う」
 いじけたような口調が、次第に強い意志を帯びていく。
「私と違ってすらっと長身で格好良いしさぁ。美人で化粧映えするし、髪の毛もさらさらのストレートだし」
「外見かよ」
「キラキラしてて、自信があって、」
 私も、もっと、しゃんとしたい……。露が消え入るような声で呟くと、再び奈緒は飲み込まれるように瞳を閉じた。
 肩に寄りかかってくる重みが増し、慌てて呼びかける。しかし返ってくるのは声にならない声だけで、私は溜め息をつきながら携帯電話を取り出した。
 それでも、こんな他愛ない奈緒とのやりとりが時折無性に恋しくなる――というのは、私だけの秘密だけど。
「もしもしすみません、タクシーを一台お願いします」
 道脇のベンチに酔っぱらいを座らせ、仕方なくタクシーを呼ぶ。夜風がアルコールを入れた肌を涼やかに撫でた。
「はい。丸大デパートの近くです。西二条南――」
 現在地を告げる言葉が途切れた。遠くに映し出された、ある人影に意識をさらわれて。
 上背のある細身の体格に、遠目でも目に付く白い肌。コーヒーに少しミルクを垂らしたような甘さを思わせる癖のある髪。
 奴だ――そう確信を持つまでには少し時間がかかった。
 とある建物から出てきた奴の長い腕には、見るからに頭の軽そうな女が絡みつくようにくっついている。建物の看板には、ショッキングピンクのネオンに囲まれて宿泊料金と休憩料金が併記されていた。
 恐らく向こうは、こちらからの視線には気付いていない。
 女の子たちの評判も上々だった奴の現実を垣間見、しばらくの間瞬きを繰り返す。次に口元に浮かんできたものは、足枷から解放された歓喜の笑みだった。
 親密そうに見えた二つの人影は、二言三言交わしたかと思えばやけにあっさりと分かれていく。どう見ても折り目正しい関係には見えない構図だった。そう。
 行きずりの一夜を共にした男女――みたいな。
 どうしても緩んでしまう口元を誤魔化すように、夜風に流された髪を耳にかけ直す。一方的に醜態を晒したままなのは我慢ならないと思っていた。
 よっしゃ。これでイーブンだ。
「む。杏にゃん?」
「ああ奈緒。今タクシー呼ぶから。ちょっと待って」
 いつの間にか切ってしまっていたタクシー会社への着信を、再度かけ直す。
 まずはこの酔っぱらい子リスを家まで送ろう。明日は休みだし、午前はいつもと違う書店に足を運んで、新刊を発掘するとしようかな。
「ん?」
 緩んでいた頬が、ぴたりと動きを止めた。「お客さん?」繰り返しの無言電話に困惑した声が、受話器から繰り返される。
 返答を忘れて再び瞬きを繰り返した先には、先ほど本性を目撃したあの男と、通りから手を振って現れた女がいた。
 先ほどの女は、見るからに軽そうな女だった。安っぽいブリーチをいれた針金のような髪の毛に、バッグだけがやけに浮いている若者ファッション。
 しかしながら、今奴と腕を絡ませたのはまるで逆の印象を受ける女性だった。軽くエアーの含ませたショートカットに、シンプルなスーツの上下。さっきの女とはどう考えても別人だ。
 親しげに会話を交わす二人の背中が再び同じ建物へ消えていくのを、私はぼう然と見送った。つまりあれは二股? いや、というよりはむしろ――。
「――絶倫?」
 しっかりと発音されてしまった言葉。口元にある受話器に気付き、私は焦って顔から離す。
 携帯電話は既に、待受画面になっていた。

   ***

 全く馬鹿な幻想を見てしまったものだ。
 完璧な爽やか青年なんて、小説や映画じゃあるまいしこの世に存在するはずもない。
 それでもなお胸にくすぶる苛立ちを抑えきれないまま、私は久しぶりに「カフェ・ごんざれす」へ足を運んでいた。
「読み終わりましたか」
 今日仕入れてきたばかりの小説を読了後、感慨がこもった吐息を漏らす。それを見計らったようにかけられた声に、私は伏せていた瞼を緩やかに開いた。
 柔らかな笑顔に、細められた瞳。奴は今日も、爽やか好青年モード絶好調らしい。
 周囲を見渡すと賑わいを見せていたテーブルはすでにひと気を失い、店の奥からは食器が水を弾く音を立てている。
「すみません。また最後まで長居をしてしまって」
 さらりと謝罪の言葉を口にしたが、実際は予定通りだった。いつかの日と同じ、本日最後の客になるために。
「いいえ全然。寧ろ、逆です」
「え?」
「また来ていただけて、よかった」
 青年の整った顔つきに、はにかんだような笑顔がふわりと現れる。しかしながら私の胸は少しも揺すぶられることはなかった。
 苛ついていた。あの夜、思いがけない目撃者になった瞬間から。
 正直、この男がどんな日常を送っていようが知ったことじゃない。女心を弄ぶ極悪人だとしても見抜けなかった女も女だし、両者同意の元なら自己責任だ。
「今日こそ、きちんと自己紹介をさせて頂きたかったので」
「……」
 奴の言葉が店内にはっきりと響く。
 薄い色素の瞳に吸い込まれるような感覚に陥る自分を、済んでのところで食い止めた。心の中でかぶりを振る。二人きりの空間に、決して酔わされるなと。
「……そうですね。私も、きちんと自己紹介したいと思っていたんです」
 読み終えた本を傍らに置き、私は席を立った。ヒールを足しても奴に届かない視線を憎々しく思いながら、ぐっと背筋を伸ばす。
「小野寺杏。二十五歳。M大図書館の司書をやっています」
「小野寺……杏さん」
 油断を誘うような、どこか甘い声色で呼ばれる名前。
 騙されねぇよ。この馬鹿。
「ええ。宜しければ、友達になりませんか」
 恐らく今までで一番の、とっておきの可愛らしい笑顔を向けて。

「セフレじゃない」
「純粋な」
「友達に」

 突如、遠くから誰かが吹き出す気配がする。いつの間にかレジ前に戻っていた栄二さんの耳に入ってしまったらしいが、今するべきはコイツから目を逸らさないことだった。
 私の宣戦布告に、奴もまたしばらく驚いたように目を見開いている。しかし私の意志を感じ取ったのか、しばらくしてようやく抜けたような笑いを見せた。それは降参の合図だ。
 頭の切れるであろうコイツには、私の意図が寸分の狂いなく伝わったはずだ。
 誰とどんなお付き合いをしようがあんたの勝手だ。ただ……そう。
 私を、「そういう対象」にいれるんじゃねぇ――と。
「ふ。やっぱ、思った通りの人だね。杏ちゃんは」
 杏ちゃん?
 さらりと妙な呼び名を用いた奴を軽く睨み上げる。すると、奴の瞳に揺れる危うい光に気付き、胸が嫌な音を立てた。
「まずは自己紹介の続き。関(せき)透馬(とうま)、二十八歳。この店も含めて何個か掛け持ちで仕事してる。お陰で栄二さんには迷惑かけてます」
 せき、とうま。
 あっさりと明かされた奴の名前と、簡単な人となり。その口振りは、本性を言い当てられた状況すらも楽しんでるようだった。
 予想を逸脱した展開だ。こちらの手札はもう切ってしまった。心なしか距離を詰められている気がして、予感はいよいよ確信に変わっていく。
「っ、きゃ」
 思わず後ずさりをしようとした私のヒールが、床の木目に引っかかった。バランスを崩した私の背に瞬く間に腕が回され、難なく身体ごと引き寄せられる。
 奴の肩に寄り掛かる体勢に気づき、屈辱に顔がかっと熱くなった。昨夜の頭の軽そうな女と同じ体勢だと気付いて。
「っ、離れ……!」
「杏ちゃんはさ。自分が美人だってこと、よーく分かってるタイプだよね」
 耳元に吹き込まれた吐息のような囁きに、ぎくりと身体が強ばる。押しつけられた白いシャツは、煎り立てのコーヒーの薫りがした。
「だからこそ、譲れないところは全部剥き出しになる」
「何……ですか、それっ」
「ふ。店長に食ってかかる杏ちゃん、勇ましかったなぁ」
「……!」
 肩を震わせながらそう告げる奴に、私は今度こそ、羞恥に身を焼かれた。
「そんなにあの作家のサイン本が欲しかった?」
「っ、アンタに関係ない!!」
 本当はむちゃくちゃ関係あるけれど、そう言わずにはいられなかった。
 今まで散々素知らぬ振りを通してきたくせに――ここで言うか、その話を!
 激情に耐えきれず頬を張ってやろうと手を虚空に振りあげる。しかしながら一瞬早く、奴の頭をはたく音が店内に響いた。
「お客様に何をしている、透馬」
「いっ、ててて……」
「栄二さん……!」
 正義のヒーロー現る。
 さすが経営者。このカフェの良心。窮地に差し伸べられた手に脳内で拍手喝采をしていたのだが――。
「こんの無差別種蒔き機が。この店の客には手ぇ出すんじゃねぇって脳味噌に直接打ちつけてやらねぇと理解できねぇか、ああ?」
 栄二さんが再度拳を振りかぶったかと思えば、そのまま奴の頭をぐわしっと掴む。
 何やら頭蓋骨がキシキシ痛ましい音を立てる光景は、まさに大魔王と呼ぶに相応しい……って、あれ?
「あは。理解してます覚えてます忘れてませんって。恩は忘れない性分ですよ、俺。だから頭を離してくださいお願いします~!」
「少しでも妙な真似しやがったら、元居たあの路地裏に容赦なく転がすからな」
「栄二さん目がマジ! 少しは信用してくださいよ、もー」
「信用に足る人間になってから言え。クソが」
「…………」
 …………あれれれれれ。
 何がどうしてこうなった。行き場を失った張り手が、みるみるうちに力を失い萎れていく。
 地面を這うような低い声。奴の胸ぐらを揺する手つきは見るからに手慣れたもので、相手をする奴もまた手慣れた様子だった。
 栄二さんだったはずの人物が、呆けたままの私に躊躇なく向き直る。思いもよらず、蛇に睨まれた蛙の心地を味わった。
「ご迷惑をおかけして本当にすみません、小野寺さん。宜しければお座り下さい。コーヒーを一杯ご馳走します」
「……あ。どうぞ、お構いなく」
 自分は人を見る目がなかったのだろうか。穏和な笑顔を置き土産に背を向ける栄二さんを遠い目で見送る。
 知らぬ間に構築していた彼らの人物像が、砂塵の如く崩れ去っていった。
 ぽすんとソファーに脱力すると同時に、隣の無差別種蒔き機をじろりと睨みつけた。もう半分八つ当たりだ。
「……何よ、その楽しそうな顔は」
「ふ。栄二さんが客の前でああなるのは初めて見たな。完璧主義者だから」
 どこか嬉しそうに語る奴に対し、私は大きな溜め息をついた。おかしなことが起きている。こんなはずじゃなかったのに。
「どっちの栄二さんもちゃんと同一人物で本物だからさ。怖がらなくても大丈夫だよ」
 あれが同一人物とするならば、この世に異なる生命体など存在しないのではなかろうか。
「へぇ。じゃあ、あんたの軽口は何なのよ。本物か、嘘っぱちか」
「嘘じゃない」
 間髪入れずに告げられた返答に、私は思わず奴を見返した。
「杏ちゃんときちんと知り合いたかった。これを逃したら機会はないと思ったから。本当だよ」
「使い回しの台詞は結構です」
「信用ないなぁ」
 奴が眉を下げて笑う。信用してたまるか。
「杏ちゃん」
「あとね。さっきから思ってたんだけど、その馴れなれしい呼び方もやめてくれな――、」
 続けるはずだった言葉は、交わされた視線によって止められた。
 注がれる視線が一瞬でも、愛おしいものを見つめるものに思えたのだ。
「杏ちゃん、俺さ」
「な、なに……」
「杏ちゃんが好きだよ」
 ああ、駄目だ。付いていけない。
 どうしてそうなる。どうしてそうなった。一から十まで説明してほしいんですが!
「心配しないで。俺がただ惚れてるってだけで、杏ちゃんに迷惑を掛けるつもりはないからさ」
 既に迷惑だ。口を開くのも億劫な私は、視線で吐き捨てる。
「それにさ。一番大事なものは、簡単に手に入れちゃあつまらない」
「は?」
「時間をかけてゆっくりと俺のものにするほうが、手に入れ甲斐があるでしょ」
 根拠もない自信。
 しかしながら、吹き込まれた奴の言葉の中に、近い将来訪れるであろう受難が容易に予見される。
 ああ、もしかして、私。
「透馬って呼んで。俺のこと」
 知らない間に、隠しダンジョンの森に迷い込んでしまったのか。
「仲良くしてね。杏ちゃん」
 きゃふん。扉前でずっとお昼寝をしていたらしいゴンちゃんが目覚め、大きくひと伸びした後に咳払いをする。
 可愛いゴンちゃんのその鳴き声が、私の心境にぴたりと重なった。

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