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ウオノメにキス

 第四章 悔恨、告白、雲隠れ。

 二年前の三月。薫は東京の大学を見事合格した。
 薫が東京に旅立つ前日、親睦のあった私たち親子とともに催された送別会。酒好きな両親達は二次会と称して早々に居酒屋へ飲み直しに行った。いつもの流れだった。
 その日に初めて、私と薫は関係を持った。
 手を引いたのは薫だ。それでも、促したのは私だった。
 決意を秘めた猫のような瞳も、いつの間にか自分を追い越した長身も、三月の冷ややかな空気も、何も拒むことをしなかった。一夜限りのことと覚悟し、必死に声と涙を堪え、意識をこちらに縫いつけて。
 単なる離別の感情が高じただけならば、プライドの固まりのような自分がこんな選択をするはずない。
 好きだったのだ。私は。
 薫のことが、もうずっと……ずっと前から。

   ***

 記憶にいまだ刻まれている試合会場までの道のりを進む。相変わらず仰々しいアリーナへの扉を、熱気に押されながらようやく開いた。
 そこで待ち受けていたのは、狙いすましたような薫のダンクシュートだった。
「あ! 杏ちゃーん! ここっ! ここ空いてるわよー!」
「おばさん」
 弾けるような歓声。辺りの観客が沸き上がる人混みの中、両手を振るおばさんの元へと急いだ。動くことも忘れてしまいそうな熱気に包まれていた。
「来てくれてありがとうねー。薫ってば杏ちゃんが試合見に来るって、昨日からやたら張り切っててねぇ~」
「あいつ、試合前日は変なテンションになるもんね。昔から」
 何でもない風を装いつつも、思い出深いこの空間に何も感じないはずはない。
 人がひしめき合うギャラリー席に、見下ろした先の広いコート。追いかけるのも困難なボールの行く末に一喜一憂し、十人の選手の技に翻弄される。
 まるで昔に戻ったみたいだ。そう思わずにはいられなかった。
「あ!」
 思わず出た声に被さるように、辺りが一斉に歓喜に揺れる。相手のパスカットから始まった速攻の先端に、見間違えるはずもないバスケ馬鹿の姿があった。
 何度も見た走りが相手選手を置き去りにする姿が圧巻で、ぼやけていた昔の感動を細やかに塗り変えていく。床に叩きつけるボールの音が自分の胸の音に重なり、更に速さを増していった。
「――薫ッ!!」
 叫んだ声が喧噪にかき消される。同時に薫の手を放れたシュートが、ゴールに鮮やかな音を奏でた。
 編入したてのくせにもう選手の輪の中心にいる。生意気なことを口走ったのか、途中で味方の先輩らしき人からどつかれている。ああ、何か、本当に。
「帰ってきたのねぇ」
 おばさんが頬に手を添え、感慨の籠もった息を吐く。
「うん。そうだね」
 試合終了のブザーが鳴り響く。
 周囲が一番の喧噪に呑まれる中、薫が観客席にそわそわと視線を馳せていることに気付いた。その視線がこちらでぴたり止まり、不敵な笑みが浮かび上がる。
 どうだ。見たか? そう聞こえた気がした。
 私は手首を返してさっさと整列するよう促す。反応をもらえただけで馬鹿みたいに破顔する薫に、ふふっと隣から笑みが零れた。
「おばさん?」
「ふ。何だかねぇ、あんまりあなた達の関係が変わっていないみたいだから、おばさん、嬉しくってね」
 口元に弧を描いたままコートに拍手を送るおばさんの横顔を見つめて、私は呆然と言葉を失っていた。そうなのかな。少なくとも、周りの人からは。
 耳から遠く離れていく勝利の余韻を、私は遠い過去を見る心地で聞いていた。

   ***

「月が、綺麗だな」
 ぽつりとこぼされた一言に、私は思わず吹き出した。
 途端、訳が分からない様子で眉をひそめる薫にますます肩の震えが止まらない。
「何だよ? 俺らしくねぇってか?」
「ふ、ふふ……いや。別にらしくないとは思わないけど、ねぇ?」
「そんじゃ、何だよ」
 訝しげに唇を尖らず薫に、私は数回の咳で喉を整えゆっくりと空を見上げる。
 夏目漱石の――なんて、こいつが知るはずもない。満月に近い月が真っ暗闇の中に白く浮かび上がっている。星の瞬きも今は目に入らないような、境界線も明瞭な月。
 確かに綺麗だと、心の中で呟いた。
「今日はお疲れさま。圧勝だったね」
「おー。まぁ、向こうは俺のデータが殆ど無かったし、次は今回みたいにはいかねぇだろうけど」
 あら。珍しく冷静なお言葉だこと。
 自信過剰バスケ馬鹿男も、周囲の波にもまれて少しは成長したらしい。思えば試合中も、同じチームの先輩からかなり荒い声で指摘を受けていたように見えた。
 M大は古くから歴史ある大学で、運動部は上下関係の厳しさが根強く残っている。お調子者のこいつには良い灸据えになるかもしれない。
 息を吐いた途端、白い息が辺りに溶けていく。思いのほか冷えている春の夜長に気付き、私は両手を上着のポケットにしまい込んだ。
「冷えたか?」
「ん。まだまだ北海道は冷え込むね。早く暖かくなればいいのに」
 肩をしぼめて悪態を吐く私だったが、目の前に当たり前のように差し出された手のひらに、ぱちくりと目を瞬かせた。
「これは何ですか。薫クン」
「手。早く」
「は」
「……繋ぐ」
 何でだ。というか何でカタコトだ。
「ガキの頃だって、杏姉が手袋忘れたって騒いでた日にゃ、毎回俺の手で暖とってたじゃん」
「何年前の話だよ」
「何だよ。もしかして杏姉、意識してんの?」
 この野郎。東京のコンクリートジャングルから帰還した馬鹿は、ほんの少し頭を使える馬鹿になっていたらしい。
 子供の安易な挑発と知りながら、目の前の得意げな笑みに残りの道のりを目測する。
 我が住居たるマンションまでは三分そこらだ。
「――っ、へ?」
「何よ」
 赤ちゃん体温だった昔とは全く違う。
 容易く包み込まれるほど大きく、少し堅い手に、私は素早く手を添える。
「暖。とらせてくれんでしょ?」
 予想外だったのか、繋いだ途端に怖いものでも触れたかのように指を踊らせた奴の手を、反抗を込めて力一杯に握りしめた。
「なにさ。まさか意識してんの? 薫クン」
「う、う、うるせっ!」
 捨て台詞を吐きながら、薫は慌てて顔を真逆に背けた。
 黒髪が無造作に流れている合間から、真っ赤に染まった耳が覗く。どんな皮を被っても結局は子供の頃のままの薫に、私はすっかり毒気を抜かれた。
「早く歩いてよ。寒い」
「わかってるってのッ!」
 こちらのペースに持ち込めば、ただの幼馴染みだったあの頃に戻れる。ぶつくさ文句を言いながらも、薫は私の手に黙って繋がれていた。
「それじゃ、送ってくれてありがとうね」
「ん」
 マンションのエントランスまで送られ、繋がれていた手はごく自然に解かれる。キーホルダーひとつ無い飾りっけのない鍵を、私は鞄から取り出した。
「おばさんに宜しくね。おやすみ」
「ちょっと待った」
 背に触れた温もりに、肩が大きく跳ねる。
 鍵をエントランスの鍵穴に差し込もうとしたものの、手元が狂い、床に落ちる音が小さくこだました。後ろから包み込むように回された腕に、急速に胸の鼓動が高鳴っていく。
 警告音が聞こえた。この状況は、危険だと。
「離して薫。誰か来たらどうするの」
「……」
「薫? ちょっと、人の話聞いて……っ」
「いいから!」
 少し、黙ってろよ。
 抱きしめる腕の力を強め、互いの空間がゼロになる。
 途端、過去に葬ったはずのあの時感覚がくっきり輪郭をもってフラッシュバックした。自分の顔が徐々に熱を帯びていくのが分かり、抵抗を強くする。
「もう、いいでしょ、本当に人が来るから……!」
「なぁ杏姉」
 息を飲んでしまったことに、気付かれてしまっただろうか。
 色香を含ませた呼び名に、強固なはずの地盤がこうも容易く揺るがされる。
「俺……杏姉が好きだ」
 少し苦しいくらいに、抱きしめる腕の力が加わる。
 花が咲き綻ぶように胸に沸いて溢れそうな歓喜は、どうしても目を逸らさせてはくれなかった。
 顔が、胸が、熱い。その熱が目の奥にまで行き渡りそうで、私は咄嗟にぎゅっと神経を絞り上げた。
「杏姉。こっち、向いて」
 五つも年下のくせに。
 まるで、聞き分けのない子供を宥める、大人にでもなったかのように。
「顔、真っ赤じゃん」
 半強制的に振り返らされた。たちまち晒された私の情けない顔を眺め、薫もまた、頬を赤く染めながら嬉しそうな声を上げる。
「ははっ、杏姉のそんな顔、初めてだな」
「な、にを……!」
「可愛い」
 過去の苦味が、驚くほど鮮やかに蘇る。
 薫の口からこぼれ出たその言葉に、私の浮かされた熱は弾けるように消え失せた。
「……初めてだね。薫に『可愛い』なんて言われたのは」
「杏姉?」
「二年前のあの頃は……一度も言われたことはなかったもんね」
 エントランスに立ちこめていた甘く熱い空気が、一気に霧散する。
 肩に添えていた大きな手が、さっと勢いを落としたのが分かった。
 そうだ。あの頃の薫は、私に「可愛い」なんて一度も口にしなかった。
 甘さに浸るようなその単語自体は――呆れるほど耳にしていたのに。
 ゆっくりとなじるように視線を絡ませる。強ばった表情の中に明らかな動揺の光が見て取れた。
 ずるい指摘だと、自分でも分かっていた。それでも、一度蓋を開けてしまった感情はみるみるうちに腹の底から這い上がって止まらない。
 面白くも何ともない空気の中で、私はふっと笑みをこぼした。
「もういいんだよ薫。そんな風に償おうと思わなくても」
 心境とは裏腹の、凪のように穏やかな声が出る。
「は……?」
「二年前のあれはどうかしてたのよ。なかったことにしようよ。お互いに」
 再会して初めてだ。二年前のことを口にしたのは。
 ずっと互いに避けてきたから。言葉したら最後、あのあやふやな記憶が現実として否応なく差し迫ってくることに。
「私も。好きだよ。薫」
 自分の肩に引っかかったままになっていた両手を、そっと下ろさせた。
「でもそれはあくまで幼馴染みとして。そうでしょう?」
 薫は答えなかった。私は勝手に笑顔で締めくくる。気付かない振りをする。それくらいは許されるはずだ。
 鍵を差し込みエントランスの自動ドアが開く。これで、本当に全部幕が下りる。
「おやすみ。また大学でね」
 別れを告げた、その瞬間。
 瞳に飛び込んできた予想だにしない光景に、私は完全に虚を衝かれた。
「ちょ……薫?」
「う、ぅ……っく」
 何故ここで、お前が泣く……!
 驚愕している私をよそに、見上げるほどの高さから雫がぽろぽろと落ちていく。マンション内へ踏み出していた足を忘れ、私は慌ててきびすを返した。
「薫っ、何よ、急に!」
「杏姉の、せいだろッ!」
 目を赤く染めた薫は、頬に伝う泣き痕を乱暴に拭った。
「何だよそれ。なかったこととか……どうかしてた、とか……!」
「え?」
「んな簡単に無かったことに出来るならっ、わざわざ東京から戻ってきたりしねぇよ!」
「……!」
 狭い空間に、薫の叫びが割れんばかりに響きわたる。
 とうとう耐えきれなくなったらしい。擦る手の動きが定まらなくなってきたかと思うと、目の前の長身がゆるゆるとしゃがみ込んでいった。
 時折「っ、そぉ……ッ」と自分の髪を荒々しくかき乱す。そんな薫の想いを、私はもう、否定することが出来なかった。
「薫」
 床にひざを付く。乱雑な動きを続ける薫の手を取り、静かに下ろさせた。代わりにそっと頭に添えた私の手に、俯いたままの薫はぴくんと小さく反応する。
「さっき私が言ったことは、嘘じゃないよ。薫のことは……少なくとも今は、幼馴染みとして好きなの」
 なるべく本心に沿った言葉で紡いでいく。薫を想うこの気持ちは、二年前のあの頃とは違う。
 恋愛を越えて愛情と呼べばいいのかもしれない。それでも、家族愛とはまた違う気がして、それを上手く説明することが出来なかった。
「それって」
「うん?」
「俺にもまだ――チャンスはあるってことだよな」
 気付いたときは既に遅し。
 何度も翻弄されてきたこやつの切り替えの素早さに身を引こうとするも、手首を掴んだ手が向こうに引っ張る方が早かった。
 器用に引き寄せられた身体が、薫の膝の間に難なく収まる。
 目を白黒させる私をよそに清々しい笑顔を浮かべる薫。あれ。あなた、さっきまで泣いていませんでしたっけ。
「幼馴染みとして、なんかじゃない」
 耳元で囁かれ、かっと顔が熱く燃える。
「杏姉のこと。少なくとも今の俺は……ひとりの女として好きだ」
「お、おんな、って」
「へへ。杏姉も意外にちっこいな。こうしてみると」
 抱きしめられながら頭をぽんぽんと撫でる感触。まるで子供扱いされているようで、眉が寄ってしまう。
 それなのに、何故だろう。嫌悪感よりも羞恥心が勝って上手く状況に対処出来ない。
「杏姉」
 抵抗が弱かったからか、肩に擦り寄ってくる。吐息が首筋を掠めて小さく身震いした。わざとじゃないだろうな。このガキ……!
「ちょ、薫、あんたねっ」
「ん。もうちょいだけ」
「もうちょいって……おい!」
「いい匂い、する」
「――!」
(杏ちゃん、いい匂いする)
(もうちょっと支えておけば良かったかな)
 横切った真新しい記憶に、おぼろに霞みかけた視界が真っ赤に燃える。
 我に返った私は後方の鳩尾めがけ、渾身の力を込めて右肘をねじ込ませた。
 敵が回復する前に身を起こし、再び鍵を回す。自動ドアの向こうに急ぐ。今度こそ、泣き落としには引っかからない。
「ちょっとすり寄って、腰を撫でただけじゃん…・!」
「黙れ! このセクハラバスケ馬鹿が!」
 いまだに頬が熱く火照っている自分が情けない。精一杯の反抗に、エントランスでうずくまる薫に鋭い睨みを利かせた。
 俯かれていた薫の視線と、思わず重なる。
「絶対、惚れ直させてやるから……覚悟しとけよな! 杏姉!」
「声がでかい! さっさと帰れバカ薫!」
 頭がパンクしそうになったところで、私は素早くエスカレーターの中に滑り込んだ。いつもなら階段で上る三階までの道のりも、今は足に力が入る気がしない。
「っ、そぉ……ッ」
 先ほどの誰かさんと全く同じ呻き声をあげていることに、私自身、しばらくは気付かないままだった。

   ***

 さて。一体どうしたものか。
「小野寺ちゃん? 何か……大丈夫?」
「へ?」
 デジャヴ。本日三度目のやりとりに気付き、私は丸まりかけていた背筋を素早く伸ばした。ちなみにこの動作も本日三回目だ。
「もしかして例の落書き犯のことで疲れてる? あまり抱え込まないようにね。ほら、うちも警戒しているからか、ここしばらくはいたずらも止んでるようだし」
「はは……ありがとうございます、今野さん」
「事務室作業だから、主任の目がなければ問題ないけどね。この職場じゃ数少ない若いオナゴなんだから、カウンターではいつもの調子で男子生徒を喜ばせておいてよ~? ふふっ」
「それじゃ、お疲れさまでした~」と温かな笑顔で手を振る今野さんに、苦笑のまま手を振り返す。
 違うんだ。落書き犯のことなんてこれっぽっちも頭にないんだ。そんな独白を胸に秘めながら。
(んな簡単に無かったことに出来るならっ)
(わざわざ東京から戻ってきたりしねぇよ!)
 昨夜の出来事を、もう何度思い返しただろう。
 感情を爆発させた薫の言葉が、油断するとすぐにリピート再生される。誰かこの設定を止めてくれ。
 再び記憶に浸りかける自分に気付き、目の前のブッカー作業の手を早める。心頭滅却するにはこの作業が一番だ。
 入荷した書籍を保護する透明シール、通称ブッカーを恭しく机横に積み上げる。いつもの角度に書籍を置きいつもの手順で採寸を計測、切り進めていく。裏紙をさっと取り外し、空気を取り込まないよう、慎重に――。
「小野寺さーぁんっ! 居ますか何処ですかトイレですか――ああっ! 居た! 小野寺さん発見!」
 心頭滅却は失敗に終わった。
「小野寺さんっ! 大変ですよっ、また図書館入り口に……あれ?」
 大きな紙袋を振り回して駆け寄ってくる中吉ちゃん。私の反応の薄さに気付いたのか、首を傾げながら私の手元を覗き込む。
 滑らかに密着したブッカーの面に、小さな小さな気泡がひとつ。
 勤務二年目。ブッカー作業の緻密さは、中吉ちゃんもさすがに理解をしている。事を察したらしい彼女の「あ」という小さな声に、私はようやくゆらりと顔を上げた。
「中吉ちゃん……ドアは静かに開けましょうって、貼り紙してあるよね……?」
「す、すみませんすみません! 私、つい! あ、残りのブッカー全部私がやります! 寧ろやらせて下さいお願いします……!」
 泡を食いながら頭を直角に下げる。その拍子に、後方の積み上げられていた本が彼女の紙袋にぶつかり辺りに散乱した。ますます慌てふためく後輩の姿。一瞬天を仰ぎかけたが、可愛い後輩だ。仕方ない。散乱した書籍の海に私もひざを付けた。
「うう……ありがとうございます、小野寺さん~……」
「そのショップ袋はまた新しい服? 中吉ちゃんってば最近も衝動買いしちゃったって嘆いてなかったっけ?」
「えへ。窓口事務の友達に誘われちゃって、気付いたらこんなに……って、ああっ!」
 至近距離のメガホンボイスに、反射的に耳元を両手で塞ぐ。そんな一連の動作に目もくれず、中吉ちゃんは大きな瞳をさらに大きくしながらこちらに詰め寄ってきた。
「ちょ、中吉ちゃん。近い近い」
「近くもなりますよ! 小野寺さん、また来てましたよ! 例の彼!」
 ぎくり、と胸が鳴る。
「図書館の入り口前に! 入らないんですかって聞いたら、ここで待ってるからいいって言ってましたけど、何か元気がなさそうで」
 もしかして、彼氏さんと喧嘩中ですか? 気遣わしげにこちらを窺う中吉ちゃんに、咄嗟に返答が出来なかった。
 中吉ちゃんが私の彼氏と思い込んでいる候補者は二人。
 そのどちらであっても、平静を装うのに苦労することは確実だった。

「ねぇ、あの人」
「うっわー……何かあれだね。絵になる人って感じ?」
 小声ではしゃぐ女子生徒たちの会話が耳に届く。確かに、彼女たちの言うとおりだった。
 図書館ゲート前には、誰でも利用が可能なフリースペースが広がっている。
 その一角に置かれたふたり掛けソファーに、長い脚を嫌み無く組んで書籍に視線を落としている人物の姿があった。「絵になっている」と称されるに相応しい、奴の姿が。
「今日は、書籍を借りていかないんですか? お客様」
 シンプルな水色のシャツに、珍しくメガネを合わせた出で立ち。無駄な装飾が省かれた格好は、半人前の男子学生らとは明らかに違う存在として空間に際だっていた。
「久しぶり杏ちゃん。喫茶店で水をぶっかけられたとき以来だっけ」
 いつもと同じ憎まれ口で、透馬が微笑む。咄嗟に荒げかけた声を私はぐっと飲み込んだ。同時に、楽しげに細められる目元に小さな違和感を覚える。
「どうして来たの」
「ははっ、相変わらずつれないね。杏ちゃんに会いたくなっちゃて」
「そんなに具合が悪そうなのに?」
 薄茶色の瞳が見開かれる。気付かないと本気で思っていたのだろうか。
 口調が弱々しい。いつもは陶器のように真っ白な肌はやけに血色が良く、だて眼鏡では隠しきれていない青い隈。
「熱は? 計ってこなかったの?」
 もともと前髪が開けている透馬の額に自分の手を当てる。念のため他方の手を自分の額に当て、瞑目して比較する。ほら、やっぱり随分熱い。
「仮にも飲食業に携わっている人間でしょ。自己管理がなってないんじゃない?」
「……あ、はい。ごめんなさい……ませ」
「は?」
 可笑しな語尾。熱に浮かされて頭がついていっていないのか。
「ちょっと……何か悪化してない? 汗も出てるし、顔も赤くなってるし」
「はは。杏ちゃんって、意外と天然だー」
 意味の分からない言葉に思わず睨みあげるも、透馬は力無く笑みを返すだけだった。呼吸もどこか苦しそうな様子で、私は困惑に眉を寄せる。
 頭の中で、無意識に今日のシフト組みの確認をしている自分に気が付いた。こんな状態の奴をおいて仕事に戻るのはあまりに忍びないというか、何というか。
 早番の今野さんはもう帰ってしまったし、遅番でベテランの先輩はひとりだけ。あとは同期と新人の中吉ちゃんだから、私が抜けた状態で難しい案件が入ったら上手くフォローできるかわからない。
 というか、この状況で抜けさせて下さいなんて、どんな言い訳をすればいいんだ。
 先日私が喫茶店で水をぶっかけたせいで、彼氏ではない男友達が風邪で意識が朦朧としているんです……って、んなこと言える訳あるか……!
「杏ちゃん」
 呼び止められて肩が跳ねる。
「大丈夫。ひとりで帰れるよ。今日はこれから約束もあるしね」
 約束? 首を傾げかけた私の頭に、ある人物の影がごく自然に浮かび上がる。
 それは先日まさに水を浴びせるきっかけになった、お団子頭の女性だった。
 彼女に三下り半を突きつけられ意気消沈していた奴も、今はよく見れば体調不良の中に変な高揚感が滲んでいる。はあ、なるほど、つまり。
「彼女に……振られずに、済んだんだ?」
「へへ。これも杏ちゃんのお陰かな」
 へらりと緩められる透馬の口角。
 何故だろう。とってもとっても嬉しくない。
「それは良かったね」と単調に告げ、明後日の方向に視線を投げた。やっぱりさっさと職場に戻ろう。
「でも、もう少しだけ」
「え……っ」
 微かに潤んだ瞳が揺れる。鈍い動きで私の手が捕獲され、再びゆっくりと奴の額に着地する。
「な、なに?」
「杏ちゃんの手、冷たい。もう少しだけ、こうしてて?」
「ちょ、少しってあんたね……!」
 冷えピタ代わりの私の手に大層満足したらしい透馬は、そのまま束の間の睡眠に意識を落とした。
 ちょっと待て。こっちが下手に出てりゃあつけ上がりやがって。
「風邪にかこつけて、なに図々しいことを――ッ、!」
 咄嗟に手を引っ込めようとして、ふと我に返った。そうだ。此処は、図書館前のフリースペース。
 容易く拾うことのできる四方八方からの好奇の視線に、私は沈黙を選ばざるを得なかった。
 変に取り乱すのも噂の火種になるだけだ。すぐに開き直った私は、何事もなかったかのように透馬の隣に腰掛ける。
 額に触れたままの私の手は、すでに奴の温もりを移されて温くなっている。どこか穏やかな表情で瞳を閉じている透馬を、私はしげしげと眺めていた。
 狸寝入りかと思っていたが、どうやら本当に寝入ってしまったらしい。眼鏡越しの長いまつげが時折微かに震え、小さな寝息がそっと耳を掠める。
(杏ちゃん、いい匂いする)
(もうちょっと支えておけば良かったかな)
 昨晩、薫に抱き寄せられた時。
 あの混乱の中で私は、不思議とこいつの言葉で我に返った。
 薫の台詞とリンクしてしまっただけなんだろう。それでもあのタイミングで聞こえてきたのがこいつの言葉だったことが、いまだに解せない。
 他の女のものだと思った途端、この男が惜しくなったのだろうか。
「まさかね」
 結局、十分もしないうちに透馬は自然と瞼を開いた。短時間眠りにつくことが珍しくないような、とても自然な起き方だった。
 一応出入り口まで見送ったが、幾分かすっきりした表情を見せていた。
「付き合ってくれてありがとう。本探しのことといい、杏ちゃんには本当に迷惑かけちゃうな」
「あんたが厄介だっていうのは既に把握済みだから」
「ははっ。そっか」
 辺りを染める西日にそっと目を細める。同じように目の前の光景に視線を向けていた透馬が、おもむろに口を開いた。
「しばらく、杏ちゃんとは会えないかもしれない」
 水面が夕焼けにきらめく輝く川縁で、子供達のはしゃぐ声がする。
「……え?」
 春が落ち着き肌に心地良い温度になった風が、一帯を優しく流れた。
「杏ちゃんにとっちゃ、別にどうでもいい情報だったかな」
「……『ごんざれす』にも?」
「うん。栄二さんには、ちゃんと話してある」
 それならば、本当にどうでもいい情報だ。
 そのはずなのに、日に照らされた透馬が今にも解けて消えるんじゃないかと、一瞬本気で考えた。
「う~ん。ここで涙の見送りシーンにならないかな~とか、ちょっと期待してたんだけどなぁ」
「誰がそんな甘ったるい反応してやるか」
「ははっ、確かに」
 どうして?
 何も考えずに口から出そうになった言葉を、密かに飲み込む。
 しばらくということは近々帰ってくるってことだろう。まるで言い聞かせるように頭の中で確認している自分が可笑しい。
 考えているうちに、透馬が真正面からこちらを見据えていることに気付き、胸がにわかに騒ぎだした。
「杏ちゃんの手、嬉しかった。ありがとう」
 それじゃ、またね。他に言い残すことなどつゆもない様子で、透馬は背を向け歩き出す。
 止める理由もない私は、その姿を無言で眺めていた。
 感謝を告げられた右の手のひらを、そっと握りしめる。先ほどまで直に感じていた透馬の温もりは、もうすっかり辺りの空気に解け消えていた。

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