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ウオノメにキス

 第八章 復帰、失恋、泣き笑い。

 例の事件から丸一週間が経過した日、私は何事もなかったかのように職場に復帰した。
「主任がね、上の教授方にかなり熱心に掛け合ったらしいよ」
 のんびりした調子で話す今野さんに、私は書類を振り分ける手を止めた。今野さんの目尻に、優しいしわが寄る。
「小野寺ちゃんが居ない間、仕事があちこち滞っちゃってねー。帰ってきてくれて本当に良かった」
「今野さん……」
「これからも末永く、宜しくね?」
「こ、こちらこそ」
「小野寺さんっ!?」
 ドアノブを明らかに無視した開閉の音が、事務室一帯に響きわたる。反射的に見遣った視線の先にいる予想通りの人物に、私は思わず苦笑を漏らした。
「中吉ちゃん。扉は静かに開けましょうって、もうこれで何回目?」
「っ、小野寺さぁ~んっ!」
 鼻をぐずぐずと鳴らしながら駆け寄ってきた中吉ちゃんに、私は受け身を取る間もなく抱きしめられた。後ろにひっくり返りそうになりながらも、胸元で額を擦りつけている後輩に緊張が解けていく。
 他の同僚たちも、深くは聞かずに労いの言葉をかけてくれた。もちろん真意はわからない。中には私の復帰に反対の声もあっただろう。仕事中に利用者から注がれる視線も、今まで以上に神経をすり減らせる。
 それでも今、自分にこの場が与えられた。それが心底有り難かった。

「何やってんだよ。杏姉」
「薫」
 昼休憩中。大学キャンパスを横切る小川に沿うように並ぶベンチに、私は腰を下ろしていた。
 先ほどまで私の隣に座っていた女の子が遠ざかっていく。その後ろ姿を穴が開くくらい凝視した後、薫は足早に駆け寄ってきた。
「何だよあの女。ここの学生?」
「みたいだね」
「杏姉……まーた厄介事に巻き込まれてんじゃねぇだろーな?」
 あの事件以来、こいつの過保護体制はなかなか治りそうもないらしい。凶暴な視線を浮かべている薫を見て、私はぷっと吹き出した。
「違うって。ちょっと相談を受けてただけ」
「は? 相談?」
「恋愛相談。だからそんな物騒な目をしなさんな」
 きょとんと目を丸くする薫。私も周囲のこの変化には若干戸惑っていた。
 先日図書館内で繰り広げられた過去の暴露は、思わぬ方向で今に尾を引くことになった。
 男子学生から不埒で軽い視線を向けられることは予想通りではあったが、女子学生から向けられる視線はというと、それとは全く逆のものになっている。
「どうやら例の事件のせいで、今までの美人で近寄りがたかった私のイメージが一変したって」
「自分で言うな」
「言われたんだもん」
 肩を竦め、先ほどの彼女が消えていった先を眺める。私の主観がどの程度役に立つのかはわからない。それでもあの笑顔を向けてもらえたことは、私にとって決して悪いことではなかった。
「他人の恋路をどうこう口出せる身分かよ」
 あらま。無遠慮に踏み込んできた幼馴染みの足に、私はじろりと睨み付ける。それでも言い返してこない私を見るや否や、薫は大げさに肩を竦めた。
「人があれだけ奮起させてやったってーのによ。結局まだ、連絡も取ってねぇの?」
「会ったよ。偶然。近所のスーパーで」
 振り返った薫と、目を合わせられなかった。
「他の女の人と一緒だった。夕飯の買い物に来てたみたい」
「は?」
「気遣いがあってしっかり者で優しそうな人だよ。私とは、まるで逆のタイプだね」
 対峙する幼馴染みの眉間にはみるみるうちに深いしわが刻まれていく。目の前を流れる小川のせせらぎの音が、場違いに瑞々しく辺りに立ちこめる。
「他の女といた、だぁ?」
「薫、ドスが利きすぎ」
「見間違いじゃねぇよな? 惚れた男を見間違えるなんて有り得ねぇよな?」
 色々言いたいことがあったが、肯定の意を込めて頷く。
 見間違いだったらどんなにいいだろう。何度となく脳裏に蘇るふたりの姿に、性懲りもなく目の奥が熱くなる。
「杏姉」
「わっ、え……!?」
 完璧に思考に浸かっていた私は、薫の罵声のような呼び掛けに肩を跳ねさせることしかできなかった。
 長い指に難なく持ち上げられた顎も、気持ちのいい快晴の下に突如覆われた陰りも、吐息のかかる距離で交わされた視線も。
 唐突に重ねられた――唇への、熱い感触も。
「こんくらい、大目に見ろよな」
 薫が言葉を紡ぐ間も、私は目を見開いたまま言葉が出てこない。
「俺だってこんなことしても仕方ないって、ちゃんと分かってる」
「……」
 こんな、こと?
 ロボットのように機械的に頭に置かれたひらがなのパーツ。それらがそぞろに繋ぎ合わされて完成させた意味合いが、みるみるうちに実感を帯びて私に襲いかかった。
「薫」
「へっ――」
 間抜けに呑み込んだ声に耳を貸す間を与えない。振りかざした手のひらを、力一杯に油断した頬にぶち当てる。
 勢い余ってベンチから転がり落ちた幼馴染みに、私は絶対零度の視線を突き刺した。
 頬に真っ赤な紅葉を張り付けた薫が、「きゃーこわいー」とふざけた声を出す。もう一遍やってやろうか。
「ス、ストップストップ! 杏姉ちょい待った! ほら、周りから痛いくらいの視線が注がれていますよ!」
「あいにく私の精神は、一連の事件のお陰で大層図太く成長を遂げてるんだよ」
「……ぷ、はははっ」
 両足だけをベンチに置き去りにして寝そべったまま、薫は身体全体で笑いだす。
 頭でも打ったかと本気で思いかけた矢先、その笑い声の節々に僅かな震えを見つけた。
「結構辛いんだからな。俺も」
「……薫?」
「杏姉の泣き顔は、もう見たくない」
 言うなり、目の前を振り上げられた両足が空を切る。振り子のように軽く上体を起こした薫は、真っ直ぐこちらを見上げてきた。
 痛いのを我慢している顔だった。
「だけど。今の杏姉を泣かせられるのも、涙を止められるのも、俺じゃない」
 川辺の冷たい空気が、喉に詰まる。
「もう――俺じゃ、駄目なんだろ」
 ひとつの恋が終わった音が聞こえた。
 幼い頃からいつも一緒にいた。姉弟によく間違われた。おばさんに一緒に怒られた。バスケの練習に何度も付き合った。どんどん広くなる背中を寂しく思った。薫は私にとって、家族以上に刻み込まれた存在だった。
「今のキスは、飼い犬に咬まれたと思って流せよ。ただの悪あがきだからさ」
 いつの間にかすり替わっていた表情に私は呆然とする。いつからこんな器用になっていたのだろう。曇り無いガラスのように透けて見えていたはずの奴の感情が、霧がかった中で薄められ、自然な笑顔を張り付けている。
 自分の感情よりも優先する何かのために。
「何で泣くんだよ」
「アンタのせいだよ。馬鹿」
 職場近くで涙を滲ませるなんて、前ならば考えられない。
 すん、と小さく鼻を鳴らす。長く吐き出した息をしばらく見送った。
「ありがとう」
 泣き笑いになった。
「どういたしまして」
 薫は再び地面に寝転がり、空を仰いだ。つられて私も空を見る。
 地上でくすぶる私たちの存在が嘘みたいに、どこまでも突き抜けるような青だった。

   ***

 近い。この場所にきて何度目か分からない言葉を、心の中で呟いた。
「杏! ちょっと聞いてるっ!?」
「はい。聞いてます」
 こんな至近距離からの言葉を、聞き逃すはずもないだろうに。
 付け加えたものなら目の前の子リスがますます激高しかねない一言を、私はひとまず飲み込んだ。
「先週のあの時はあまり根掘り葉掘り聞けなかったけど……何だそれ。何なのそれ!? 杏に手を出した挙げ句、別の女と仲良く夕飯の買い物って! 節操無しにも程があるんじゃないの透馬君って!」
「奈緒、すごく嬉しいんだけどこの店でその雄叫びは営業妨害だから」
「お気にされなくても大丈夫ですよ、杏さん」
 コト、とテーブルに置かれたコーヒーは、私と奈緒と、もうひとり分。
 目の前のソファーに腰を下ろした栄二さんは、盆を傍らに置いてにこりと笑みを湛えていた。
「今日は貸し切りです。奈緒さんにそう承りましたので」
「ちょっと奈緒、栄二さんにまで余計な負担を……!」
「俺はもともと、あいつの身元引受人でしたから」
 何とも言えない沈黙が、「カフェ・ごんざれす」に落ちた。いつもかかっているイージーリスニングのBGMが、今日は鳴りを潜めていることに気付く。
「あいつの不始末はあいつ自身にさせる。それは今までも守らせてきた誓約です。それを反故にしたということならば、すべからく相応の対応を取らなければなりません」
「いや、ですからその、ワガママに振り回したの私の方なんです。今回の事件でも、何度も間一髪のところを助けてもらって……」
 言葉を繋げながら、台詞の陳腐さに我ながら呆れる。これじゃまるで、駄目男に引っかかった挙げ句相手を養護する駄目女だ。それでも口に出来る言葉はそれしかなかった。
 真摯に向き合おうとしてくれる奈緒と、少しの誤魔化しも許さない栄二さん。ふたりの視線に晒された中で、下手な言い訳を残したくはない。
「でも! 杏のことを好きとか言ってたくせに、他に女がいたんでしょ!?」
「あいつが不特定多数の相手がいること自体、初めから分かってたことだから」
 何気ない風に口に出した事実。そんなことすら頭から抜けてしまうほど、私は奴に参っていたのだろうか。自分だけは違うだなんて、滑稽な妄想を本気で。
(俺は杏ちゃんが――マジで好きだって、言ってんのに)
 嘘つき。
 心の中でそんな言葉を吐きつけるのも、そろそろ潮時にしなければ。
「だから、結局自己責任。私が色々間違ったんだよ。ただそれだけ」
「っ、それにしたって、杏に対してのあの態度は絶対に……っ!」
「そのことですが」
 不要な動きひとつせずにコーヒーで喉を潤す栄二さんが、静かに口を開く。
「最近のあいつは、爛れた関係から身を引いていたようです」
「……え」
「あくまで憶測ですが」
 栄二さんが「憶測」程度の情報を振れて回る人間ではないことは私も理解していた。
 それは奈緒も同じだったらしく、テーブルを介して無遠慮に栄二さんに詰め寄る。
「栄二さんはっ、何か聞いてないんですか! 透馬君の気持ちとか恋バナとか恋愛相談とか……!」
「ないですね。我々にそういう会話はありません。奴が話してきても相手にしません」
 鼻が付きそうな距離で迫る奈緒に、栄二さんはさりげなく距離を取った。それに気付く様子もない親友は不服げにソファーに腰を沈める。勢いよく腰掛けたせいで、隣に座る私の身体も反動に揺れた。「ただ」
「あいつは今まで、ただの一度も店の客に手を出すようなことはしなかった」
 告げる栄二さんの瞳は、真っ直ぐにこちらを見据えている。
 言葉に含まれた意図に気付かない私ではない。栄二さんが仕向けてくれる優しさに、私は力なく笑みを浮かべた。
「そうだとしても……アリサさんには、まるで敵う気がしませんから」
 最後にあいつの姿を見て、そろそろ半月近くが経つ。今日このカフェに来たのも奈緒にしぶとく食い下がられたからで、自ら足を向けることはなかった。耐えられないと思った。
 アリサちゃん――そう、奴が呼ぶ声を耳にするだけで、心がひび割れるみたいに痛むのを知っていたから。
「杏さん」
「え?」
「今、アリサ、と言いましたか」
 栄二さんの声色が変わった。
 もしかして栄二さんの知り合いなのだろうか。これ以上の情報を耳に入れたくなくて一瞬躊躇したが、栄二さんの「二度は聞かねぇぞ」的視線に慌てて首を縦に振る。次の瞬間、栄二さんの頭ががくっと下がった。
「栄ちゃん? どうしたの?」
「……『栄ちゃん』はやめろ」
 奈緒の問いかけにすぐさま反応してみせた栄二さんだったが、至極緩慢にその首を上げた。交わされた瞳には、先ほどのような尋問まがいの容赦の無さは消えていた。
「杏さん」
「は……はい」
「会ってやってください。もう一度、あいつに」
「え?」
「ちょっと栄ちゃん! もしかしてその『アリサちゃん』イコール、妹とか親戚とか、そういうオチだったり……!?」
「血縁者じゃない。それと『栄ちゃん』はやめろ」
 もれなく突っ込みを付随させたものの、血縁者とは違うらしい。以前二回ほど目にした二人の間に流れる空気も、そんな風には見えなかった。
「じゃあどういう……っていうか杏! 杏は今までそのアリサって人について透馬君に何か聞いたりしなかったの!?」
「え、と。確か仕事上の付き合いだって言ってたけど」
「仕事? 仕事って何の? 『ごんざれす』?」
 きょとんと瞳を見開いた奈緒の素朴な問いは、意外に答えを窮するものだった。
「私、ショップカード作りのために何度もこのお店に来てるけど、『アリサちゃん』なんて呼ばれてる人は見たことないよ?」
「えっと……確か透馬は、このお店以外にも仕事を掛け持ちしてるとかって……」
 必然的に私達の視線は、奴の雇い主である人物に向けられる。手元のコーヒーを揺らして水面を遊ばせていた栄二さんは、すっと顔を上げた。呆れたように目が細められ、視線を向けた先は。
「――来たか」
 言うが早いか、CLOSEの札が出されたはずの店内に、ドアのベル勢いよく奏でられた。
 肩を大きく震わせながら振り返った先には、ひとりの女性の姿。
 空気を吸い込むことすら大儀であるように、深く重い呼吸を繰り返す細い肩。後頭部に括られた小さなお団子からは、毛先が四方八方に跳ね返っている。
「その血相変えた面構えでこの店に足を踏み入れるなと何度も言ってるだろうが。アリサ」
 凛とした真っ直ぐな瞳。今更見知らぬ振りを通すわけにはいかなかった。
 店の入り口付近で丸く眠りについていたゴンちゃんが、嬉々として彼女の足下に寄っていく。その頭を短く撫でたあと、一歩一歩踏みしめるような足取りが、徐々に私の方へと近付いてきた。身が竦む思いがする。
「小野寺……杏さん。ですね?」
 栄二さんが指摘したように、こちらを見つめる彼女の血相は、予想以上の悪いものだった。
 髪型が崩れているのもそうだが、それ以上に目を見張ったのは顔色の悪さ。半月ほど前に見かけたときと比べ、目がたぎり青い隈が濃く引かれている。すっきり健康的なラインを描いていたはずの頬も、心なしか痩けてしまっている気がした。
「アリサ。手短に済ませろ。ただでさえ話がややこしくなっているんだ」
 苛付きを隠さず促す栄二さんに、アリサさんははっと覚醒したように丸まった背中をピンと伸ばした。そして次の瞬間、血色の悪い彼女の姿が目の前から消えた――かと思ったら。
「小野寺杏さん! 杏様! お願いしますっ! 後生ですのでどうか、こちらの頼みを聞き入れてくださいぃ……!!」
「へ? な、ちょ、待って下さい、あの……っ!」
 固く身構えていた私だったが、突如彼女がした行動に目を剥いた。
 迷いなく床に腰を下ろしたかと思えば、額を床に擦り付けるように深々と頭を下げている。
 土下座。生まれて初めて目にしたその行為に、私は酷く狼狽した。
「落ち着いて下さいっ! 何が何だかわかりませんが、ひとまず頭を上げて……!」
「どうかお願いします! さもなくば、私の安らぎの日々はいつまで経っても……!」
「話ならちゃんと聞きます。だから土下座はやめて下さいっ!」
 結局、栄二さんに首根っこをひょいと持ち上げられたアリサさんは、大人しく目の前のソファーに腰を下ろすこととなった。その間もなにやらぶつぶつとお経にも似た言葉を続け、隣にいる栄二さんは眉間にしっかりとしわが刻まれている。
 突然の侵入者に奈緒はじぃ~っと無遠慮な視線を投げかける。しかしながらアリサさんは、そんな視線に気付く余裕もない様子だ。
「杏様」
「杏で良いです。それが嫌ならせめて『さん』付けで」
「突然すみません……ちょ、最近、あまり眠れていなくて」
 今も頭を右へ左へふらふらさせている。まるでしなるメトロノームのようだ。普通ならここで労いの言葉をかかるべきなのだろうが、私は済んでのところでそれらを喉奥に止めた。
(これでも貴方のことを考えて……夜も眠れないほどなのに)
 喫茶店で初めて二人を見た。
 その時何のためらいもなくアリサさんは透馬にそう言った。私には、到底真似できそうにない素直さで。
「本当は、私がこんなお願いするのはお門違いだって、分かっているんです」
 先ほどとは一転、落ち着いた口調で紡ぎ始めた話に、私ははっと顔を上げる。
「私が口出しすることではない。お二人が、自ら考え進めることだろうと、分かっているんです」
 ふらつきながらも寄り道することなく、話の本質を進めていく。
 その先に行き着くであろう「お願い」に、私はとっくに察しがついていた。
「それでも……あんな姿を連日見せられたら、もう、どうしようもなくて」
 彼女はずっと辛抱して見守っていた。
 私が苦しんだ以上に、彼女も苦しんでいたに違いない。そんなことは、察するに余ることだった。
「失礼を承知でお願いします。勝手なお願いとは分かっています。それでも、どうか!」
「っ、あいつともう会うなというお願いなら、お断りします……!」
 耳を塞ぐために動いたのは、手ではなく口だった。
 それも、自分でも驚くくらいに子供じみた。
「……え?」
「貴女が私に忠告するのは尤もです。憎まれるのも当然です。貴女はあいつの彼女なんですから……っ」
 堰を切ったように口に付く言葉は、止まることを知らない。
「貴女に対するあいつの反応は違います。言葉も、表情も、感情も。心底信頼し合って、そこには付け入る隙なんてない。私にだって、そんなことくらいは分かります」
「……それは、つまり」
「でも!」
 でも私は。
 私にとっての、透馬の存在は。
「杏……っ」
 懸命に言葉を繋げようとする最中、隣から奈緒の庇う声がする。
 小さな手が自分の頬を撫でる。濡れた指先。ああやっぱり、最近の私は涙腺が可笑しい。今まで栓を閉じていた分、一気に放出しているみたいだ。
「杏さん」
 平坦な声色に、警戒心が疼く。
 罵声を浴びせられても仕方ない。頬を汚す涙をそのままに、私は視線をぐっと持ち上げた。
「それじゃ杏さんも……高橋(たかはし)先生のこと、好きなんですね?」
 ぽかんとした表情で紡がれた質問に、私もまた、ぽかんと呆気にとられた。
 ――高橋先生?
「高橋先生のこと、好きなんですね? ということは、私がどうこうしなくても、おふたりは既に両想いなんですねっ!?」
「っ、アリサ、お前は……!」
 栄二さんの制止も空しく、アリサさんは先ほどまでの弱々しい瞳が嘘みたいに輝かしい瞳をキラキラとこちらに向けていた。唐突に変化した彼女の様子に私は付いていけない。
 というか、誰だ。高橋って。
「透馬君の苗字って……確か『関』だったよね?」
 同じことを考えていたらしい親友に、私はポカン顔のままこくりと頷く。
 まさか偽名を掴まされていたのだろうか。ふつふつと沸き上がってくる苛付きは、「信頼関係というのは、間違いないと自負はしていますけどね」という言葉に更に増長された。
「私、有佐(ありさ)ちえみは、高橋先生の担当編集です。個人的な何やらといった関係ではありません! ご心配なく!」
 眩しいくらいの笑顔で開示された情報は、私の思考を一時停止するには十分だった。
 アリサって苗字だったのか。いや、そんなことよりも。
「へん、しゅう?」
「ご存じありませんか? 『高橋ひかる』って、最近テレビにも紹介されてるんですよ。今売り出し中の小説家――っ、ぐ」
 タガが外れてしまったらしい。止まることなく周囲に放たれるマシンガントークは、背後から回された大きな手によって呆気なく塞がれた。
「有佐。お前はもう本気で黙れ。これでまたこじれたらお前、間違いなく担当を外されるぞ」
「む、むぐ? むぐぐ……っ」
「杏さん。こいつが今言ったことは……」
 どこか腹を決めたような栄二さんの言葉は、私の頭にまで届くことはなかった。
 小説家 高橋ひかる。
 ご存じない、わけがない。
 その小説家は、私が「知っている」と胸を張れる数少ない作家のひとりだ。
 デビュー当時からその著作は全て目に通している。数ヶ月前に出た新刊も、わざわざ三ヶ月前からスケジュール帳に発売日を書き込み、書店でサイン本が完売したと知るや否や店長に食って掛かるくらいには思い入れもあって――。
(どうぞ。お譲りします)
 ああ、そうだ。
 あの日、私が透馬と出逢った時も。
(お譲りいただいて、ありがとうございます……)
(うん。『こちらこそ』)
「――!」
 目の前に、眩しいものが弾けたようだった。
 瞬間、顔にみるみる集まってくる耐えきれないほどの熱を、私は咄嗟に両手で覆い隠す。不意に指先に触れた目尻に溜まるものが、自分を更に混乱に追いつめた。まさか。まさかまさか。
「杏ッ、逃げちゃダメ!!」
「っ!」
 泣き叫ぶような、悲痛な叫びだった。無意識に浮かしかけていた腰を、元の椅子に沈める。
 掴まれた服の端をたどって、その先の親友を見遣った。
 その瞳もまた、眩しく濡れていた。
「後悔してたじゃない。薫君と向き合わなかったこと、ずっと後悔してたじゃない。もう同じことは繰り返したくないって……そう、思ってるでしょ……?」
「奈緒」
「行ってきて。杏」
 両手をきゅっと結ばれる。相変わらずの赤ちゃん体温だ。また、溢れそうになる。
「私、ここで待ってるから。杏のこと待ってるから。だから大丈夫だよ。安心して……っ」
 ふにゃりと歪んだ泣き顔で、唯一無二の親友が渡してくれた引導だ。
 手放すわけにはいかない。

   ***

 車内の空気はこの上なく張り詰めている。どうしても乾いてしまう喉に何度目か分からない唾液を飲み込んだ。
「今、先生は書下ろし原稿の締め切り間近なんです。いつもマイペースな先生ですが締め切りを破るなんて今までありませんでした。優秀な作家です。でも今回は、明らかな危機感があります。様子からして変です。流動食しか食べない。原稿を落としたら、なんて仮定は許されません。どうにかして下さい」
 まくし立てるようにそう言いきった有佐さんが、舌打ちとともにハンドルを大きく回した。助手席のシートベルトに縛り付けられた私は、彼女の心理状態を示すような運転に身体を揺らしている。
 遠くに聞こえるクラクションの音を置いてけぼりに、車は暴走し続けた。たどり着いた先は、七階建てのやや大きめなマンションだった。意外と普通の外観に呆けている間にも右脇をガッチリと固められた私は、ベルトコンベアに乗せられた機械部品よろしく、真っ直ぐに目的の場所まで運ばれていく。
 いよいよ目的の階層が近付いてくるエレベーター内で、私はようやく我に返った。
「あ、あの! あいつ、私が来るってこと、知ってるんですか?」
「つゆほども知りません。最近は話しかけてもずっと上の空です。あのクソが」
 再び響いた舌打ちに、怯みながらも言葉を続ける。
「私が行って……何を話せばいいんですか? こんな急なことで、私は」
「あいつは貴女を失いたくない」
 眠りを覚ますような口調だった。
「貴女はあいつの恩人らしいですよ。最近も、執筆にどうしても必要だと騒いでいた絶版の書籍を、貴女が探し出して下さったとか」
 あの本……そういう目的で?
「それだけではないようですがね。詳しいことは本人から聞いて下さい」
「え?」
「ここです」
 目を白黒させている間に、有佐さんは手慣れた様子で鍵を回し一室のドアを開いた。落とした視線の先には男物の靴が二、三組放り出されている玄関フード。胸がどくりと跳ね上がる。
「鍵はお渡しします」
 冷たい感触と名刺らしき紙が手中に握らされる。途端に現実味を帯びてきた状況に私は酷く狼狽えた。
「っ、あの」
「んんー。それにしても」
 思いのほか至近距離だった有佐さんが、まるで値踏みするような視線を送ってくる。咄嗟に距離を取った私に、思案顔の彼女は「ふむ」と小さく頷いた。
「先生のお相手じゃなければ……その意志の強そうな目元とか、結構私の好みだったんですけどね」
「……は?」
「へへ。ご心配しなくとも、人のものを取りはしませんよ。終わったらその名刺の番号にかけて下さい」
 いまだに隈を目元に残しながらも爽やかな笑顔で去っていく後ろ姿を、私は呆然と見送った。何か気になることを言われたような気もしたが、考えるのは後だ。
 パタン、と空気を吐き出したドアの音に一層緊張を煽られる。
 息を潜めて靴を脇に並べ、リビングに繋がっているらしい扉にそっと耳を近づけるも、人が居るのかも確認できなかった。
 こんな所まで押し掛けて私は、何を伝えに来たんだろう。
 触れているドアノブと同じくらいに冷えきっていく指先の一方で、頬は燃えるように熱く火照っていることに気付いていた。
 男の家に無断で立ち入って、どう話を切り出す? どこから弁解すればいい?
 向こうがどんな想いかも、どんな状態かも分からないままなのに。
「……っ」
 重い思考の波を振り切るようにかぶりを振った。そうじゃない。今必要なのは、賢い選択肢なんかじゃない。
 逃げ出そうと思えば、いくらでも逃げ出せたのだから。
「と、透馬……?」
 振り絞って出した声は掠れていた。
 ドアノブを静かに回す。必要最低限で済まされている玄関とは違い、人の住まう光景が広がることに、今更ながら身が縮む思いがした。
 しんと静まり返った室内。人影はない。
 どうやら1LDKらしい。リビングに繋がるワンルームにも洗面所にも、人の気配はどこにもなかった。てっきり部屋の主が居るものかと思っていた私は、導き出された答えに一気に肩の力が抜ける。
 ひとまず自分の鞄を適当に床におろす。そしてやはり足音を立てないようにしながら、私は室内を見物し始めた。
 閉め切られたままのベージュ色のカーテン。外から透けている日の光が、部屋の中を淡くくすんだオレンジに色付けていた。リビングのテーブルには食事の跡が残されたままの皿が隅に追いやられるように置いてある。
「……本は?」
 独りごちた私は、リビングの中央から辺りをぐるりと見回した。
 以前連れていかれた私営図書館と、本への執着。
 どう考えても私と同等の本の虫と思っていたが、奴のリビングにはその気配がまるでない。そんな考えの中私の足は自然と、引き戸で繋がるワンルームへと向けられた。
「透馬……?」
 細く開いたままになっていた引き戸をカラカラと開ける。部屋の奥には、無造作に布団が開かれたベッドが姿を現した。部屋の主の残像を思わせる光景に、一瞬戸惑いが浮かぶ。
 しかしながら、ほんの僅か視線をずらした先に広がる光景に、私は目を見開いた。
「う、わ……っ」
 口元を両手で覆う。それでもなお口から湧き出そうな感嘆の声が、胸を熱く火照らせた。
 ベッドと向かい合わせにして壁一面を使って備えられたクローゼット。そこにまるで自分の祖父が遺した別荘を思わせる、凄まじい数の本がずらりと並べられていた。
 クローゼットにピタリと填められた棚は、きっとオーダーメイドなのだろう。書籍ごとの背丈に綺麗に合わせられ、色とりどりの書籍が整然とこちらを見つめていた。
 圧倒されながらもふらふらと歩みを進めた私は、キャスター付きの椅子に軽く足をぶつける。視線をやった机の上には、紙の束が無造作に積み重ねられていた。
 打ち込まれた文章の所々に、赤ペンの指摘が書き込まれている。
 どこか見覚えのある、文字間の狭い字だった。
「これは……」
「杏ちゃん?」
 身体が、大きく揺すぶられた。
 摘まみ上げていた紙束のひとつを宙に浮かし、箱の中に取りこぼす。騒がしい紙の擦れる音が部屋に響いた後、意を決した私は背後を振り返った。
 リビングの真ん中で、呆然と立ち尽くす透馬の姿。
 いつもは嫌みなくらいにセットされている茶色の癖毛は、無造作に首の後ろで一括りにされている。電気を点けていないからか顔色も良くない。視線でさらった手元のビニール袋の中身も、ジャンクフードが主なようでお世辞にも健康的とは思えなかった。
「……透馬」
 眼鏡越しに見る瞳は、ただただこちらだけを見つめている。
「ごめんなさい。その、突然勝手に、上がり込んで……」
「……ああ。有佐ちゃん?」
 え、と口にするより先に、透馬の顔にはへらりと困ったような笑みが浮かび上がった。
「もしかして有佐ちゃんに会った? 頼まれたんでしょ。あの人も本当心配性だから」
「え、と」
「ごめんね。こんな所にまでわざわざ来てもらって」
「……」
 矢継ぎ早に告げられる言葉は、全てが完結し、私の入る余地なんて無いように思われた。
「でも大丈夫。一応食事だってとってるし、前みたいに体調不良ってわけじゃないから」
 始終笑顔が貼り付いた透馬を、私はじっと見つめた。奴も決して目を逸らさない。逸らしたら負けだった。
「ここまではタクシーで来た? 下に呼ぶよ」
 早く出ていって、ということか。
 ポケットから取り出した携帯電話を、透馬はためらいなくプッシュしていく。
 軽口がぺらぺらと宙に舞う室内に乾いた音が響いた。直後、床に携帯電話が落下する。
「こっちを見ろ。馬鹿透馬」
 ふわふわと軽い空気がぴたりと止む。
「ちゃんと! ここにいる私を見なさいよ……!」
 いつの間にか両手で掴みかかっていた透馬の襟元を、力一杯に引き寄せる。
「今更そんな嘘くさい顔を見せて……馬鹿にしないで! そんなつまらない独り芝居を見るために、わ、私は……っ」
 まずい。そう思ったときにはもう、熱い吐息とともに目の奥がつんと痺れる感覚が襲う。
「私は……ここに、来たんじゃない……っ!」
 堰を切ったように言い放った。目の前の透馬は、今度こそ呆然とこちらを見つめている。
「なんで」
 透馬の口からこぼれ落ちた言葉には、ようやく感情が乗っていた。
「なんで、ここに来たわけ。有佐ちゃんになんて言われたの。言いくるめられるなんて、らしくないじゃん」
「言いくるめられたわけじゃない」
「ふ。それじゃますますわからない」
 まるで馬鹿にするように口元を歪めた透馬は、手に提げていたスーパーの袋をソファーに置いた。
 向けられた背中が、遠く感じる。
「透馬に……会いたいと、思ったから」
 緊張と羞恥で喉が引っかかる言葉を、何とか外へ押し出した。
「透馬に、会いたくて……だ、だからっ」
「だからさぁ」
 胸にさあっと冷たいものが駆け抜ける。臆病に怯むには十分な、乱雑な口調だった。
「なんでそんなことわざわざ言いに来るの。会いたいから会いに来たって……なんなのそれ。今更」
「……っ」
「ざけんなよ……ほんと」
 苛付きをまるで隠そうともしない。開けっぴろげに感情を剥き出しにする透馬に、どうしたらいいのか分からなくなる。
 身体も、思考も、視線も。その冷たい態度にいとも容易く凍てついて、ただただ立ち尽くすほか無かった。唯一胸の奥だけが、ずきずきと溢れ出すような痛みを伴って鼓動を続けている。
 ふざけてなんか、ない。
 溢れ出しそうになる女々しい涙を、ここでは絶対に流すまいと決めてきた。透馬が背中を向けているのをいいことに、私は素早く目尻に滲みかけた泣き痕を甲で払う。
 ふざけてなんかない。だってこんなに胸が痛い。
「なくしたくない」
 もう、遅いのかな。
「え?」
「なくしたく……ない。わ、私はっ」
 振り返った薄茶色の瞳に晒される。身が竦みそうになる。立ち方を忘れかけた膝を、無理矢理奮い立たせた。
「透馬のこと……私、は」
「……」
「わ、わたし、はっ」
 うわ。なんだこれ。
 あと一言。たった一言なのに、口に出るのは出来損ないのよろけた吐息だけだった。本音を口にすることにここまで慣れていない自分を、改めて情けなく思う。
 自分の身体なのに思うようにいかない。
 一体、どうして。
「っと、とう、ま」
「……あー、もう」
 まるで遮るように声を上げた透馬に、思わず肩が跳ね上がる。
「杏ちゃんはもう、本当に……」
「……?」
「そんな目で、こっち見ないでよ」
 どんな目だよ。涙もギリギリ滲ませていない。ただ、何となく落ち着き無く視線を彷徨わせる透馬は、明らかに様子が変わっていた。
「そんな目で……そんな顔で。そんな風に何度も呼ばれちゃあさ」
「好き」
「期待――」
 続く言葉が呑み込まれる唇の細やかな動きを、私は無言のまま見つめていた。自分の言葉を認識したのはしばらく経ってからだ。
 あ、言えた。
 他人のような一言が頭に囁かれた瞬間、私はようやく、大いに狼狽える。
「か、帰……じゃ、じゃあね!」
「っ、待った!」
 玄関に勢いよく足を踏み出した私は、その言葉を待ちわびていたように歩みを止めた。
「杏ちゃん」
 恥じらいを上回る歓喜に身が焦がされていく。お願い。
 手を掴んで。
「その……か、鞄……忘れてる」
「……」
 ゆるゆると指さされた先。そこには確かに、床に寝かされていた私の鞄が、主人の行く末を間抜けに見守っていた。
「……どうも」
 床に手を伸ばし、鞄を静かに持ち上げる。情けなく歪んだこの顔を見られたくなくて、顔はずっと伏せたままだった。
 だからこそ――奴が目一杯に腕を伸ばしてくることに、気付くのが遅れた。
「きゃ……!」
「ッ、杏ちゃん!」
「ちょ、待っ……、んんっ」
 背中を容易く絡めとった腕。動揺する隙も与えられないまま、唇に燃えるように熱いものが重ねられた。
 咄嗟に瞼を閉じてしまう。苦しい。そっと離された合間に集めようとした酸素も、またすぐに奪われる。
 鞄が床に再び寝転がる音を遠くに聞いた。捕らえられた両手が壁に結い付けられ、必要以上に密着する身体に再び熱が帯びる。そしてまるで違和感無く舌まで差し込んできた透馬に、私はようやく抵抗を見せた。
「は、ちょっ、と!」
「杏ちゃん」
「調子、乗りすぎ……!」
「だって、夢かもしれないから」
 至近距離にある長い睫が、微かに震えてる。
「頭イカレて瀕死の中で見てる、都合のいい夢かもしれない。ね、もし夢なら、このまま眠っていようかな」
「……馬鹿」
「馬鹿でもいいよ」
 ふわりと再び回され腕は、まるで毛布のように柔らかく私を包み込む。腕の中の空気を吸うと、驚くほど甘かった。
 首元を掠める透馬の吐息から、混濁した欲望が滲んでいるのが分かる。溶かされかけた身体の芯が、唐突に目を覚ました。「で、でも」
「私は別に、あんたを縛るつもりはないから!」
 羞恥心と見栄がごちゃまぜになる。沈黙を手当たり次第に潰していくように、勝手に口から滑り落ちてきた。
「私のことを特別扱いに、とか。そういうのは別に、望んでな……」
 ぱし、と私の手を掴む音がする。
 身体の向きをぐるりと変えられ、気付けば両頬が大きな手のひらに挟み込まれていた。促されるままに、床にすとんと腰を下ろす。
 どうしてこんなに胸がうるさく騒いでしまうのだろう。長年感情をコントロールしてきた反動みたいに、まるで制御が利いていない。
 穴が開くほどこちらを凝視する透馬に、せめてもの抵抗に非難の目つきを作った。
「杏」
「……なに」
 っていうか、呼び名。
「杏は俺が、ほかの女を抱いてて平気なの」
 馬鹿な質問をする。
 律儀に答えを待っているらしい透馬を、私は黙って見つめる。その表情の中には、確固たる自信の裏側に脆い陰が根ざしていた。
 頬を包み込むこいつの手のひらが、火照ったままの頬に馴染んでいく。このままひとつになればいいな、なんて。残念なことに私は、そう望んでいた。
「俺はやだよ」
「え?」
「絶対やだ」
 吸い込まれるように口付けられた。学習することなくガチガチに固まる私に少し満足げな笑みを浮かべ、透馬はそっと額を合わせる。
「ま、大事な幼馴染みで仕方なくっていうなら、少しは譲歩もするけど」
「自分は他の女の子と遊んでるくせに、ですか」
「う」
 栄二さんからの情報を敢えて伏せ、進行形で攻撃を試みた。
 透馬は困ったように笑うのみで言い訳をしない。予想通りの反応だった。
「私が嫌だって言ったって、周りの女の子が放っておかないんじゃないの? そんな女の子たちを、あんたも冷たくあしらわない」
「……やきもち?」
「あんたもな」
 煌めく瞳を一蹴する。
「女の子が魅力感じそうな肩書きだもんね、カフェの店員とか、小説家の先生とか」
 口にするや否や、今後の展望が嫌でも頭に浮かんでくる。とても平穏無事とは言い難いその光景に、私はげんなりと肩を落とした。
「杏ちゃん」
 おや。呼び名。
「有佐ちゃんに、聞いた?」
「は?」
「有佐ちゃんが、バラした?」
「……」
(有佐。お前はもう本気で黙れ。これでまたこじれたらお前、間違いなく担当を外されるぞ)
 しまった。思わず。
 先ほどの有紗さんと栄二さんのやり取りを見るに、「その仕事」のことはトップシークレットだったのだろう。咄嗟に口を噤んだ私を見るや否や、透馬は苦々しげに「アホ編集」と呟いた。
「あ、あの……透馬」
「どこまで聞いた?」
 どこまでと言われましても。
 何とか有佐さんをフォローしようとしたものの、俯いたままじっと沈黙を守る透馬の様子に結局言葉を結べなかった。癖毛から覗く耳が、ほんのり赤い。
「高橋ひかる先生」
「!」
 がばっと持ち上げられた顔には、不安と羞恥がありありと浮かんでいた。その表情を目にしてふと、サイン本を巡り店長に掴みかかった書店での出来事を思い出す。
 本当に、なんて恥ずかしい出逢い方をしていたのだろう。
「お会いできて光栄です。高橋先生」
 息を飲む音がした。
 瞬く間に染まり広がった赤い頬に、滴が伝う。
「……こちらこそ」
 初めて見た、くしゃくしゃに泣き笑う透馬が、きらきらと眩しかった。

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