夜空に散りばめられた星のようだった。
城という外界との隔たりを、生まれて初めて抜け出した夜。
深い森の中で彷徨っていた自分にとって、その蛍のような光は――…いや、その少女の笑顔は。
幼かった己にとって、ひどく、胸焦がされるものだった。
蛍のヒカリを灯しましょう。
シンデレラ。
“灰かぶり”の意味を持つ、それが私の名前。
飼育小屋の鶏が鳴き出す前に目を覚ました私は、使い古しのエプロンとワンピースに身を包むと早朝の仕事に取り掛かった。
洗い物と朝食の準備を済ませた私は、まだ自らの主人であるアンナ様とクリス(本名はクリスティーナだけど、私やアンナ様はそう呼んでいる)が起きていない事を確認すると、花壇に水遣りをするべくこっそりと家の扉を閉じる。
「……あ、やば。万年筆、ちゃんと持ってきてたっけ」
万年筆。
それは幼い時に亡くした母上の形見の品。眠る時は必ず枕元に、起きたらまず最初に自分の首からぶら下げる、大事な宝物。
お目当ての万年筆がちゃんと自分の首に麻紐でぶら下がっているのを確認でき、私は胸を撫で下ろす。
どうして花の水遣りに万年筆を使うのか――…それには、私だけの大きな理由があった。
「よしっ、今日こそ成功させるよ~相棒」
呟くような私の言葉に、まだひんやりと肌寒い早朝の空気が、優しく呼応する。
首から外し、手にしている万年筆。
目の前にキャンバスがある訳でもない。先からインクが出る訳でもない。
それなのに……まるで目の前に透明な壁があるかのように、
そして、その万年筆から黄金に光るインクが出ているかのように、瞳を閉じながら綴ってゆくのは、昨夜覚えたばかりの“ある”絵柄だった。
「……“サガラドゥーラ”」
この国では使われていない、古代文字のような模様を書き始める。
そのすぐ隣に人の目のような絵を、更に中央から延びる虹の様な曲線は……確か3本だった。
「“マカチブーラ”……、」
その曲線の上段の隙間に、再び古代模様……これが昨日どうしても覚えられなかったんだよな。
最後に、大きな円陣でぐるっと囲って――…よし、完成!
「“花たちに、恵みの雨を”!!」
勢い良く発した最後の一声。
その瞬間、私の結わない状態の灰色の髪の毛がその色を変える。
荘厳な光を放つ、銀色に。
それと同時に、先ほどまで空中に浮かび上がっていた摩訶不思議な絵柄が光に包まれ姿を消す。
そして、晴天だったはずの空高くから、花々にご馳走となる雨のような水が優しく降り注ぐ――…はずだった。
――…バシャアアア!!
「……」
「おはようさん、シンデレラ今日も朝早いなぁ~……って、何だいそのナリは。ズブ濡れじゃないか」
「フ…ッ、おはようカリーおじさん。いやね、ついさっき私の上だけににわか雨が降ってきやがってさ……」
上から下までぐっしょり濡れてしまった私は、乾いた笑みを浮かべながら1つ大きなくしゃみをする。
まだ暖かくない春の風が……濡れ切った身体に染みた。
「わっはっは!!そりゃーついてなかったな。ほれ、今朝の新聞……と、お城からの号外記事だとよ」
豪快に笑い飛ばしてくれた新聞配達のカリーだが、それ以上深く追求してこない。きっとバケツの水を誤って被ったとでも思っているんだろう。
「風邪をひく前に家に入らないと駄目だぞ~」とだけ残し個性的な鼻歌を口ずさんで去っていったカリーを見送ると、私ははぁ~っと大きな溜め息を吐いた。
――…今日こそは花たちに華麗に水遣りをしてやろうと思っていたのに。
「きっと魔法陣のなかの最後の呪文が間違ってたんだ。昨日ちゃんと暗記したと思ったんだけどなー…」
◇◇◇
実は、私は魔法使いらしい。
いや。これには少し語弊があって、正しくは魔力を持った家系の者らしい。
今ではおばあちゃん世代の頃に流行ったらしい“魔女狩り”なんて風習もすっかり過去の遺物となり、今では魔女は想像上のものとなっている。
そしてその考えは、幼い頃の私もまた、同じだった。
幼い頃母親を亡くし、路頭に迷っていた私を拾ってくれた女主人、アンナ様。
アンナ様は物書きを生業としており、よく歳の近い娘のクリスと一緒に地下の書庫に連れて行ってくれては、様々な本を自由に読ませてくれた。お陰で召使に過ぎない私も多少難しい言葉も理解できるようになったし、知識も得る事が出来た。
そして、私が7歳の時。
ある古びた大きな本が、その目に留まる。
『……何だろ、この本。題名も何も書いてないじゃん』
普通の辞典よりも大きいその本は、いかにも古めかしいワインレッドの表紙に覆われたもの。
当時の私は同年代のクリスが学校に通いだした事で、家事を終えるごとに地下の書庫に足を運ぶのがいつしか私の習慣になっていた。彼女よりも先に、ここに並んでいる本を読んでやる、という意地もあったのだろう。
――…こんなぶ厚い本を読んだって聞いたら、アンナ様もクリスもきっと驚くはず!
『……“魔法陣の描き方”?』
自分の部屋に持ち帰ってわくわくしながら開いたその本には、至る所にそういった類の単語とその絵柄が添えて紹介されてあった。
『なーんだ。もっと凄い昔の伝説とか書いてあるのかと思ってたのにさ。ただの子供騙しじゃん!』
魔法なんて、そんなの作り話だ。
こんな呪文を唱えて魔法陣?こんな変な模様を描いてマッチも無く明かりを灯せるだなんて、そんな事有り得ない。マッチ売りの少女の商売も上がったりだ。
――…でも、もしも本当に、魔法が使えたら……?
尤もらしい意見を心の中で作り上げた私だったが、その思いに反してそろそろ…っと机の上に開きっぱなしにしていた本を再び眺めてみた。
『……魔法なんて無いっていう事を、確かめるだけなら……良いよね?』
キョロキョロと辺りを見回しながら大きく深呼吸をすると、幼い私は1番簡単に描けそうな魔法陣のページを選び、首に掛けておいた母の形見の万年筆を手に取った。
それが、私と魔法との出会いだった。
◇◇◇
今夜9時より、この近隣の村を治める王族のご子息、ヨークシャー王子の結婚相手を探すべく、お城にて舞踏会が催される。
「ねーねーシンデレラ!!先月買ったハイヒール、何処に仕舞ったか知らない!?」
ブロンドの巻髪を揺らして現れたのは、この家の一人娘、クリスティーナ。
皿洗いをしていた私は水を止めると、ドレスを纏った彼女を下から上へとゆっくり眺める。紫のドレスに添えられた髪飾りの大きな花。
しばらくその姿を凝視すると、彼女の手持ちの服だの小物だのを記憶の中から瞬時に掘り起こした。
「そのドレスの色だったら菫色の靴の方が合うんじゃない?ほら、髪飾りはあのブルーのを使ってさ……」
「そりゃそうだけど……憧れのヨークシャー王子に見初められるかもしれないビッグチャンスなのよ!?少しでも目を引くように目立つ格好をしていかなくちゃ…!」
そう意気込むクリスに、私は「ハイハイ」と呟きながら玄関に探し物を求めに行った。
クリスティーナと私。
小さい頃からケンカを始めたらとことん、主人と召使とは思えない環境で育った私達は、いつの間にか本当の姉妹のような関係になっていた。
もともと内気で(私の前ではそんな事全く無いのだが)学校に入るまではなかなか友達が出来なかったクリスにとって、私は初めて出来た、同年代の友達だとアンナ様が嬉しそうに話してくれた事もある。
「それはさておき。シンデレラ、あんたは本当に行かないの?舞踏会」
「うん。だって仕事も残ってるし、読みたい本もあるし、金曜ロードショー見たいし」
「録画しろよ。……もしかして服の心配してんの?それなら私とママのドレスを貸してあげるって!」
「んーん。遠慮じゃなくってマジです。そういう社交場?あのなんか取り澄ました空気?あれがも~イヤ」
パタパタと手を振ってそう答えた私に、クリスは「このインドア派が」と吐き捨てると、そのまま衣装合わせに戻っていった。
クリスは昔からこうだ。
辛口で言葉足らずで高慢ちきで。でも、その身近な言葉の節々にはいつも私の事を気に掛けてくれる優しさがある事を、私は知っている。
『クリスティーナ様、なんて呼ばないでよね!!』
初めてアンナ様から紹介された直後、2人きりになった時に真っ先に言われた言葉。今でも思い出しては笑みが零れずにはいられない。
『ママが言ってたの。年上の人には敬意を持って行動しなさいって。あんた、私より1つ上なんでしょ?』
『だから私に敬語も使わないで!私がママに怒られちゃうんだから!!』
◇◇◇
「“気兼ねしないでね”って、素直に言ってくれれば良いのにさ」
独り言をポツリと漏らすと、私は夜空の下、いつもの川原に足を運んでいた。
つい先ほど、クリスとアンナ様の2人を見送った私は、そのドタバタ振りにふうっと息をつくとゴロリと草原に横たわり星の降る夜空を見上げる。
家から少し森を抜けたところにあるこの川原。
人気も無く静かで、私の秘密の魔法の練習スポットだ。
「今のうちに今朝の魔法の反省をしとかなくっちゃね、と」
万年筆を片手にそう呟いた私は瞳を閉じ、慣れた手付きでザザザッと空中に小さな魔法陣を描き出す。
そして目を開くと、先ほどまで真っ暗だった辺り一面に大きな蛍が舞うかのように、ふわりふわりとオレンジ色の光が私を照らしてくれた。
小さい頃から、何十回も何百回も何千回も(?)お世話になった、灯火の魔法。
要はいくつもの蛍火が辺りを照らしてくれる魔法なのだが、事典に記載されている中でも魔法陣が比較的描き易い事もあって、今では呪文を心の中で呟くだけで使えるようになった、貴重な私の十八番だ。
もう初めて魔法を使って10年近くだというのに、私が習得した魔法は両手で収まるくらいなもの。その他は集中力が足りないのか思ったように魔法が繰り出せないのが殆どなのだ。
「まぁでも!蛍火のこの魔法だけは随分と上達したもんね。最初なんてこ~んなちっこい光しか灯せなかったのにさ、今じゃベンの家のマリモよりも大きな光が――…」
「わ。」
「へっ?」
背後から突然掛けられたその声に、思わず振り返ってしまった自分は随分と迂闊だった。
反射的に視線を向けた先には、紺色のケープのようなマントのようなものを長身の身体ににすっぽりと被せ、白のシャツに深緑のズボンを身に纏った、男の人。
どうして色の識別まで出来たかというと、その要因は言うまでもなく、私がついさっき浮かべてみせた蛍火な訳で。
つまり、それは。
――…み……見られた…っ…
「あ…っ、」
「――…すごい、」
「え?」
さぁ…っと血の気が引いて、咄嗟にその場から動けない程に動揺してしまった私。
そんな私の耳に届けられた言葉は……予想とは正反対のもの。
「ははっ、すげーすげー!!周りがキラキラしてる!空から星が落ちてきたみたいだぁ!!」
「あ、の……」
「おねーさん、すごいね!ここだけ昼みたいに明るいし、何だかポカポカ暖かい!」
いやいや。
温かいのは、貴方のその、笑顔の方が何倍も。
一通り無邪気にはしゃぎ倒した後、にっこりと笑顔を見せたその少年……いや、一応青年と言うべきか。彼のあまりに毒気の無いその表情に、私はポカンと開きっぱなしだった口を慌てて閉じた。
――…魔法を、見られてしまった。
初めて魔法陣を描いた時も、まさか本当に使えるとは思っていなかった。7歳を迎えていた当時の私にとって、魔法なんて結局有り得ないと思っていたし、有り得たらそれはそれで大問題だとも知っていた。
だから、だからこそ。
目の前にふわふわと漂う蛍火を確認した瞬間の私は、目の当たりにしてしまった自分の特殊な能力にすっかり怖気づいてしまったのだ。
だって、魔法を使えるって事は。
「貴方……怖くないの?」
「え?怖いって何が?」
ポカンとそう答える青年に、私はカッと体中の血が熱くなるのを感じる。
同情のつもりなの?そんなの要らないよ、だって。
魔法が使えるなんてそんなの、
普通の人間じゃないって、事じゃないか。
「っ、何がって……!」
「怖くないよ?だって綺麗だもん、この光」
いつの間にやら私の隣に腰を下ろしていた青年。
その返答に思わず横顔をじっと見つめると、彼は頭まですっぽり掛けていたマントをスルリと肩まで落とした。
金色の、髪。
私の目に飛び込んできた蛍火に照らされてキラキラと輝くそれに、私は昂ぶっていた感情が次第に……落ち着いていく。
どうしてだろう。
この色を見ていると何だか……安心する。
「派手なシャンデリアとか、見せびらかす為の宝石なんかよりずっと綺麗!!」
「……そうなの?」
「うん。絶対!!」
シャンデリアやら宝石なんて、実際に見た事がないからよく分からない。
ただ、1つはっきりと言える事は、目の前で夜風に揺れる彼の髪が、私の目には何よりも綺麗で……見惚れるほどだったという事。
まるで、夕暮れ時のお日様みたい。
ふわふわと少し癖のあるその髪は見るからに柔らかそうで。無意識の内に手を伸ばしてしまうくらいの魅力が、彼のそれにはあった。
「……ありがとう。貴方……この村の人?それとも隣町の?」
「俺?俺は隣町のはずれに住んでるんだ。おねーさんは……この村の人だよね?」
「私はすぐ近くにある家の使用人なの。今日はお城の舞踏会で皆出掛けてるからさ、こっそり抜け出してここに」
「ははっ、それじゃー俺と同じかも!」
そう言ってふんわりと笑顔を浮かべる青年。
話によると、彼もまた、今回の舞踏会に出席するよう言われたそうだが、形式ばった空間は苦手で何も言わずに逃げてきたらしい。
そんな中で足を踏み入れた森に方向を見失っていた折、川のせせらぎとともに、私の放った蛍火がこの場所まで導いてくれたという訳だ。
「今夜の舞踏会は王子様の結婚相手を見つけるためのものらしいもんね。うちのクリスも張り切って出掛けて行ったよ」
「クリス?」
「私の仕えてる家の一人娘。10年くらい前かなぁ……あの子、大きな馬車に驚いて危うくその馬に踏み潰されそうになってね、」
「ふんふん?」
「咄嗟にある男の子がクリスを庇ってくれたの。おでこの隅に小さなケガを負わせちゃったらしいんだけど」
「確か、この辺りだったかな?」そう言って自分の前髪を寄せてトントンと指を指した私に、目の前の青年は一瞬、その瞳を大きく見開いた。
しかしながら、そんな些細な変化に気付く事なく、私は話を進めていく。
「後で分かった話なんだけど、実はその男の子、この国の王子様だったんだって!」
「へぇ~。意外に優しいところもあるんだぁ……あの王子様が」
「それ以来、クリスは王子様にずーっと片想いしてきたの。だから……上手くいってるといいなぁ」
結局あの後、派手な赤のハイヒールをやめて菫色の細いベルトがついた靴を履いて出掛けて行ったクリス。何か少しでも、嬉しいニュースを持って変えてきてくれますように。
星空にそう願いながら、私は夜風に流された自分の髪を耳に掛けなおす。
そしてふと、隣から視線が向けられている事に気が付くと、私はクルリとその方向に振り返った。
「?……どうしたの?」
「えっ!?あ、いや、その……」
「ん?」
「あ……あっ!そうだ!」
視線の先に映ったのは、なにやら真っ赤に頬を染めた彼の表情。
顔が赤く見えるのは私の蛍火のせいじゃないよね。だってこの光はオレンジ色だもん。
「おねーさんの村の人ってさ、誰でもこんな明かりを灯す事が出来るの?」
「え、」
「俺、なかなか家から出してもらえないからさ。初めて見るものとか知る事とか一杯あるんだよね。井の中の蛙っていうの?こんな事出来るなんて、本当に素敵だよね、この村は!」
そう言って感動に胸を膨らませている様子の青年に、私はポカンと固まってしまう。
魔法の事に話が逆戻りした事もさる事ながら、彼の見事なまでの勘違いに私は頭を抱え込みそうになった。だって違う。明らかに、捉え所が違う。
この村を、ミラクル☆ワールドか何かと思い込んでいるのかこの人は……ッ!!
井の中の蛙といったレベルじゃない。メルヘン世界の住人ではないのか。
突っ込みを入れたいのは山々だけども、次に続く言葉が出てこない。
『この村の人全員魔法を使える訳ないでしょ!?』『え、でもおねーさんは使って……』『だから、私の方が、普通じゃないの!!』『……それじゃあ、』『!』
――…おねーさん、……魔女なの?
堅く区分けされるような言葉……聞きたくない。
夢の中で何度も見た、異端の存在に向けられる、その視線。
悪夢に何度もうなされて、とうとう私は、だれにも魔法の事を知らせる事ができずに18歳になっていた。
親友だと思っているクリスや絶大な信頼を置いているアンナ様にさえ、この事実は伏せたままで。
私が、臆病だから。
「だって、見た事あるんだ。俺」
「……ぇ、」
「おねーさんと同じっ、ふわふわ漂う光を出してくれた女の子!!」
その言葉を解読するのに、私の頭は相当な時間を費やす事となった。
私と同じ?私と同じように、蛍火を出す事の出来る女の子が――…この村に?
それは私に1つの希望を与える言葉。もしかしたらこの村の人たちも、魔法なんて朝飯前だって。え、蛍火?ははっ、そんなの赤ん坊の時から使えるぜ!みたいな常識がまかり通っていたのかも知れない。
そんな考えをグルグル頭の中で浮かべながら、私は詳細を聞こうと青年に話の続きを促した。
「さっきも言ったけど、俺の家って結構厳しくて。俺が子供の頃、初めて家を抜け出した事があったんだ。窓の向こうに広がってる、外の世界が知りたくて」
さっきから何となく感じてはいたけれど……この青年、実は結構なお坊ちゃんなのでは?
会話の節々からも感じられるその想像。私とはきっと、住む場所も身分も違う。
今だってきっと、何かの事故で巡り会えた人なんだろうな――…なんて思い、少し寂しくなった。
「その時も夜遅くなっちゃって、この森みたいな所に迷い込んじゃったんだけど。その時にね、呼び止められたんだ。“もしかして、迷子になっているの?”って」
「それが……蛍火の少女?」
「うん、そう!泣きべそ掻いてたからハッキリ顔は覚えてないんだけどね、笑った顔が……すっごく、可愛くて」
そう小さい声で呟くと、少し懐かしむような表情を浮かべながらその頬を赤く染める。そんな分かり易い反応を目の前でされて、私は思わず口元が緩んだ。
―――…フォーリン・ラブ、かぁ……
その愛しむ様な眼差しから察する事の出来る、とても純粋な想いに触れた私は、自然と笑顔を浮かべると短く相槌を打った。
「ふふ、そんな、素敵な女の子だったんだ?」
「……ん。俺の、初恋の人。でも……その後どんなに探しても見つからなかったんだけどね」
「見つからなかった?」
「まぁ、俺もまだ幼かったからさ。記憶がちょっと曖昧で」
眉を下げつつそう告げた彼は、「んっとねぇ~…」と零しつつ記憶を探っているようだった。
「印象に残ってるのが、その子の笑顔と~歳が同じくらいだって事と~銀色の髪の毛と、」
そう呟きながら、右の指を順番に折り畳んでゆく。
その青年の単語のひとつひとつに、私は―――…次第にその瞳を見開いた。
「それと……そうだ、万年筆!それで何か模様を描いたかと思ったら、急に家までの道に小さな光がパア~ッて灯されて!お陰で無事に家に帰る事が出来―――…あ、れ?」
「あ…っ!!」
真っ直ぐに注がれる彼の視線に、私は咄嗟に首からぶら下がっていたそれをパッ!!と両の手で隠した。
それは紛れもない―――…形見の、万年筆で。
ドキン、ドキン、ドキン……
心臓の音が、酷く身体に響き渡る。
「……う、そ…」ポツリとそう呟いた彼の一言に、私たちはかああっとお互いの顔が真っ赤に染まってしまった。
「もしかして、俺、」
「……」
「知らない内に……告白しちゃってた……?」
ふわり、と夜風に蛍火が揺れる。
やっぱり……思い違いじゃなかったんだ。
この村で銀髪の少女なんて聞いた事がない。今聞いて回っても、村の誰に聞いてもそんな娘は知らないと告げられるに決まっている。
――…銀髪になってしまうのは、私が魔法を使う、その瞬間だけだから。
「そっかぁ、……良かった」
「え?」
「さっき、君の横顔に思わず見惚れちゃったから。ずっとずっと探し求めてきたあの子がいるのに、他の女の人にドキドキするなんてって……ちょっと混乱しちゃって」
「…!」
信じられない程の直球で、恥ずかしい事をバシバシと投げ付けてくる青年に、私はただ目を丸める事しか出来なくて。
「見惚れる筈だよね、10年以上、ずっと想い続けていた、女の子なんだから」
「あ、あの……」
「やっと、みつけた」
まるで独り言のようにそう呟いた目の前の青年。
そして次の瞬間、万年筆を包み込んでいた私の両手に、彼の両の手が優しく覆い被さってきた。きっと私よりも年下の男の子だと思うのに、私の手よりもずっと大きくて……逞しい。
急に伝わってきた彼の体温に、私は顔の火照りを引かせる事も叶わず、ただ包まれた両手と自分と同じように顔を赤らめている青年の顔を交互に確認しながら、「え、」「う」と言葉にならない言葉を発し続ける。
時折視界に入る彼の金の髪。
ああ―――…そうだ、この色。
幼い頃の……綻びだらけの記憶の中に、この色があった。
あれは確か、魔法を覚えたてだった……7歳くらいの時。
真っ暗な中で、家路を急いでいた私の視界に留まった、1人の男の子。
そのまま静かに家に足を向ける事も出来たけれど……どうやらあの男の子は、迷子になっているらしい。
もしかして……隣町の子なのかな。
『あの、……もしかして、道に迷っちゃったの?』
『!!』
なるべく脅かさないように発した私の言葉に、その甲斐なくビクッと大きな揺れを見せた少年は、もともと大きいのであろう瞳をより一層大きく見開いてこちらに振り返った。
その拍子に彼が被っていたフードがはらりと肩に落ちてしまい、私の視界に飛び込んできたもの。
それが―――…
「“夕暮れ時のお日様のような、金色の髪だね”って」
「!」
「覚えてる、かな。迷子になってた俺を見て真っ先に……君が言ってくれた」
不意に、握られたままの両の手にきゅ…っと力が篭る。
少し不安を滲ませてそう問う彼に、私は「あ、の……」と口篭りながらも、何とか口を開いた。夜の澄み切った涼けさに反して、顔の火照りと心拍数が、どうしても治まってくれない。
「どうして、私なんか、……どうして……」
「君は、他の奴らとは、違ったんだ」
「?……それはどういう…」
「俺の身分も後ろ盾も何も知らないのにさ。君は……俺を認めてくれて、笑顔を向けてくれた」
そう言って嬉しそうに笑みを零す彼は、まるで子供のようで。
その姿が不意に……途切れ途切れの記憶の中の彼と重なっていくのを感じた。
「あの時はまだ君よりも背の小さな子供だったけど、」
ドキン……
「今度は、君の事をずっと……」
ドキン……
「ずっと、俺が守るから―――…」
視線が、逸らせない。
微かな吐息の音さえ、今の2人には邪魔なものでしかなくて。
そして、ゆっくり私の右手を拾い上げた彼は、その大きな瞳を静かに閉じると、
私の手の甲に―――…優しく口付けを落とした。
「……っ、あ…」
「―――…俺と一緒に、城に…」
「ルイス王子ッ!!」
あまりに甘く、夢心地。
そんなお伽話のような空気の中に響き渡ったのは、聞き慣れない男性の声。
ハッと我に返った私は、思わず触れられていた右手を引っ込め、声のした方を振り向くよりも早く、周りの蛍火を瞬時に消しに掛かった。
辺りは一瞬暗闇に包まれてしまったものの次第に目が慣れていくと、視界に入ってきたのは1人の身なりを綺麗に整えた男性で。
私たちのいる川原まで辿り着いたその男性はホッと安心したように一息ついて見せると、その口を開いた。
「…ったくこの馬鹿が!心配ばっか掛けやがって人がどんだけ探し回ったと思ってんだよ!?お陰で俺は舞踏会でこっそりワインを飲む事も出来なかったんだからな!!」
「あーもーだから先に言っといたじゃん、俺はああいう形式ばった集まりは苦手なの!!大体俺は別にいてもいなくても関係ないじゃんか!!」
「あ、あの……?」
「関係大アリだろ!!仮にも近い将来一国を率いる王子のお妃を選ぶ大事な舞踏会なんだぞ、ルイス王子!!」
「そんなお妃選び、俺は認めた覚えはないもんね!!」
「……」
―――…“王子”?
ケンカを続行している2人を眺めながら、私は飛び交う言葉の意味を必死に理解しようとしていた。
王子。私がさっきまでお話をしていた彼が……王子様?
『シンデレラ~本当にこんな大人しめの格好で大丈夫かなぁ……?』
『ケガをしてまで小娘を助けてくれる人だもん。見てくれで決めるような安っぽ~い決断なんてしないでしょ』
『ん。だよね!王子様のお顔を見れるだけでも国王の誕生祭以来だし……うわ、幸せだぁ~!!』
『ハイハイ。テンション上がりすぎて転ばないようにね、クリス』
他の女の子と同じような、王族への憧れや羨望じゃ収まらない。
クリスが子供の頃からずっとずっと想い続けて、ずっとずっと恋焦がれていた、王子様。
それが―――…彼?
「…っ、」
「あ、ちょ、待って君!!」
突然立ち上がってこの場から去ろうとした私だったが、繋がれていた彼の手によってあっさりとそれは阻まれてしまう。その力はやっぱり男の人のもの。私は逃げようもなかった。
「は……離して下さい。私、もう家に帰らないと……!」
「なら、せめて教えて!君の名前は?」
「名乗るほどの者ではありません!!」
無我夢中で発したその言葉。それに対する返答がなかなか無いのを不審に思い、彼の様子を窺ってみる。
そして、その表情に私は……目を見開いた。
「―――…なに、それ」
「……あ…」
「さっきまであんなに気安く話してくれてたのに!俺が王族だって知ったから!?それとも、楽しいって……幸せだって思ってたのは俺だけなのかよ!?」
癇癪を起こしたように大声を上げる彼。それでも私が抱いたものは、恐怖ではなかった。彼の、今にも泣き出しそうな表情を見てしまったから。彼を……傷つけてしまったから。
―――…掴まれた両肩が、熱い。
その力強さが、そのまま彼の想いを表しているようで、私は目が眩みそうだった。
彼は嬉しかったんだ。“王子”という冠を外した自分を、素顔のままの自分を、認めてもらえた事が。私にもその嬉しさは、痛いほど良く分かる。
私も、とてつもなく、嬉しかったから。
「君を……愛している」
「!」
「もし城に嫁ぐのを気に病んでいるのなら、俺は、王族を抜ける」
「オイィィ!!それは聞き捨てなら無いぞルイス!!」
「うっさい!!ダイヤはちょっと黙ってて!!」
先ほど現れた、ダイヤと呼ばれた男性は慌てふためいた様子で言葉を投げ付ける。当然だ。
仮にも一国の跡取りとなる王子様がその一族を抜けるだなんて、こんな暗闇の川原で宣言する事ではない。それでも……何とも突拍子も無い彼の決断に胸がぎゅう…っと狭くなってしまう私は、やっぱり変なのだろうか。
ダイヤさんは、その纏からも察するに王族の臣下……それも特に目の前の青年の身辺の仕事をこなしているのだろう。
ぎゃあぎゃあと賑やかに言い争いを続ける彼ら2人の姿を見ていると、交錯してくる。
小さい頃から何かと衝突を繰り返してきた、自分と……親友の姿が。
―――…私には、出来ない。
「あの子を傷付ける事なんて……出来ない」
「え、」
「私はっ、貴方が思うような女性じゃありません!魔法を使わなければこんな髪、ただの汚い灰色だし、学も無いですし、落胆されるのは目に見えて、」
「そんなものどうでもいい!!俺は君自身に惹かれたんだ!!」
背後で「え、魔法?魔法って何の事?」と小首をかしげているダイヤさんが視界に入ったが、それに反応を返す事が出来ないほど、目の前の彼に私は囚われていた。
ちっとも変わらない、純粋で真っ直ぐな瞳。そこに映り込んでしまった私を見て、カアッと顔が熱くなる。
見透かされている。そんな気がしたから。
「は……離してってば!!この…っ!!」
「っ痛…、」
「ルイス!!」
「“サガラドゥーラ”、“マカチブーラ”…っ…」
無我夢中だった。
ほんの僅かな隙を見て私は右肩に乗せられた彼の手を解くと、すぐさま胸元に下げておいた万年筆を手に取り、私はザザッと彼と私の間に絵柄、呪文、曲線……最後に大きな円陣を素早く描き出す。
突如パアッと光りだしたその魔法陣を目にして、彼とダイヤさんは目を見開いた。
「“この2人を、お城に送り届けろ”!!」
「うわぁッ!?」
―――…パパンッ!!
眩いほどの光とともに、辺りに響き渡ったクラッカーの火薬が弾けるような音。
そして、万年筆の先から勢いよく飛び出してきたものは、
色取り取りの花びらと……それこそクラッカーのような小さな紙ふぶきで。
しーん。
その効果音がしっくりくる空気に包まれながらも、私はハア…ハア、と肩で息をして、その体勢から動く事が出来なかった。
瞬間移動の魔法。
1度だけ、あの辞書で見た事があった。上級魔法の印がついていたし私なんかが繰り出せる魔法じゃない。そんなの分かりきった事なのにどうして。
―――…どうして。
「え、と……今のは?忘年会用のマジックか何かで?」
「俺達を……ワープさせようとしたの?そんなに君は―――…、っ!」
逃げたい。この場から、一刻も早く。なのに。
どうして……本当に願っている事は、魔法では叶わないの。
やっと戻ってきた視界に映るのは、彼の動揺している表情。何をそんなにオロオロしているのかと思えば……ああ、そうか。私が、泣いているから?
まるで他人事のように納得し、頬を濡らす涙をグイッと拭うと、左肩に置かれたままになっていた彼の手が、するりと離れて行くのが分かった。
「君は、」
「!」
「俺の事……嫌いなの?」
嫌い、と言えたら、どんなに楽だろう。
それなのにその言葉が口に出来ないのは、目の前の彼があんまり寂しそうな目をしているから……なんて、そんな理由じゃない。
彼の事が嫌いなんて―――…そんな嘘、私が、つきたくないから。
それでも、何も返答する事も出来ずに私は素早く彼に背を向けて走り出した。
彼から逃げた。自分の気持ちからも。
それでも……心の奥底で、彼が追ってくる事を少し期待している自分が、酷く滑稽だった。
◇◇◇
「それは恋よ。シンデレラ」
翌日の昼。いつものように学校へ向かったクリスを除いた、2人で昼食をとっている中で、アンナ様はそう告げた。
「今朝から貴女ってば切ない表情を浮かべたかと思うと小さく溜め息なんて吐いていたものね。なるほど……そういう事だったの」
「で、でもっ!きっともう、お会いする事も無いかと……」
「彼の名前は聞いているのでしょう?私に任せなさい、グリム出版社の編集……ああ、担当のコートニーがいいわね。あの子に頼んで人探しの広告でも出させれば一発で―――…」
「いやいやいや!!それだけはどうか!!コートニーさんにもご迷惑が掛かりますし…!!」
「ふふっ、いいのよ~。私がいつも原稿落としかけている気苦労に比べればアリンコのようなものよ」あっけらかんとそう言ってのけるアンナ様に、私は心の片隅で苦労症のコートニーさんに同情した。
それがなくとも、人探しの広告なんて出す必要は無い。何故なら、彼が誰でどこに暮らしているのかさえもとっくに分かっているのだから。
そんな事を思いながら、私はふと、窓の向こうに小さく見える城に目を向けた。
―――…今まで考えた事も無かったけれど、とても立派なお城……
小高い丘の上を開拓し、気が遠くなるほどの年月をかけて完成させたという、あのお城。今彼も、あのお城のどこかで……城下を眺めているのだろうか。
「名前くらい、教えておけば良かった」
「っ、え…」
「…って、顔をしているわよ。シンデレラ」
小さく笑みを浮かべながら食後の紅茶を口にしているアンナ様。その面影を受け継いだクリスの事が、ふと私の頭を過ぎる。
『時間が無いから舞踏会のお話は帰ってからねっ!!』と何やら嬉しそうに言い放って学校へ向かっていったクリス。
昨夜は、私が川原で彼と話しこんでいたあの時間帯は、少なくとも、王子不在のまま舞踏会が開催されていたはず、だけれども。
あの後……彼は結局、パーティーの出席者の中から、己の結婚相手を決断されたのだろうか?
そこまで考え至った私のお盆を持つ手にギュッと力が篭る。初めての感情に戸惑って、目を逸らそうと必死で、でも―――…もう限界だった。
溢れてくる想いが、まるでせり上がるように、喉の奥につっかえて。
「後悔……しています、私…」
「ええ、そうね」
「彼に愛を告げられた時、本当はすごく、嬉しくて、でもどうしても、その手を取る事が出来なくって……だって、彼は…っ」
「彼は?」
「王子様、なんです……この国の…」
幼馴染で……姉妹のように育って、今でも不器用ながらも1番に気に掛けてくれる。
大切な親友の―――…長年の、想い人。
「昨夜お逢いしたと言っていたわね。それはつまり……ルイス王子と?」
「はい。初めは彼が王子だとは知らなかったのですが……臣下の方がいらっしゃって、彼がクリスの片想いの相手だと知って……」
「まさか、それが理由で?」
アンナ様の問い掛けに、私はこくりと小さく頷いた。
あまりに突然膨れ上がった自分の想い。それは、小さい頃からずっと一途に彼を想い続けてきたクリスのそれと比べれば、ちっぽけなものなのかもしれない。それでも。
『俺の事……嫌いなの?』
本当は首を一杯に振って、否定したかった。貴方に会えて私も嬉しくて、出来ればもっとお話をしたいと。
そして……貴方の事を、もっと知りたいと。
いつの間にか、私の瞳からはぽろぽろと涙が零れ出していて。
そんな私の濡れた頬を優しく指で撫でてくださるアンナ様は、ふっと静かに微笑んで下さった。
「―――…クリスのせいにしちゃ、駄目よ」
「…っ、え…?」
「新しい世界に踏み出す事が、苦手で……怖がりで。ふふ、昔からそうだったわね、シンデレラは」
「アンナ、様……」
「初めての恋心に、どうしていいのか分からなくなってしまったのね」
いい子いい子、と子供をあやすように、アンナ様は私の頭を優しく撫でる。
その度に視界に揺れるのは、私が生まれ持つ長い……灰色の髪。汚い色。小さな頃からそう蔑まれてきた私は、ずっとこの色が嫌いだった。
シンデレラ。灰かぶりの意味を持つ―――…私の名前。
『あなたの名前はね、命の次に、お母様が与えてくれた、大切な贈り物なのよ?』幼い日の私はアンナ様にそう言われて初めて、この髪を愛でてくれた、母上の想いに気が付いた。そして思い出した。
母上もまた、私と同じ灰色の……流れるような美しい髪だった事を。
灰色。その色自体が、汚かった訳じゃない。汚かったのは私の捻くれた心。
自ら自分を認める事を出来きなくて―――…だからこそ。
『わぁ…っ、す……すごい!!』
『隣町の街灯がある大通りまで、この蛍火が照らしてくれるから。ただし!この事は、誰にも言っちゃ駄目だよ?坊や』
『坊やじゃないってばっ!ん……でも、ありがとう。お姉ちゃん、優しいんだね』
『え?』
『今夜、外に出てきて良かった。お姉ちゃんと逢えたから!またね、お姉ちゃん!!』
ああ……そうだ、あの時。
他に方法が思いつかずに、迷子の少年の目の前で魔法を使って見せた……10年前の、あの時
キラキラと輝く瞳で本当の私を見つめてくれた、認めてくれた。
その子のお陰で私は再び……本棚の奥に封印していた魔法辞書を開く気になれた。
あの子を助けたように、私の持つ“魔法”と言う力で何かの役に立てるかもしれない。誰かを幸せに出来るかもしれない。
それは、私にしか出来ない事で。それに気付かせてくれたのは―――…そう。
紛れも無く、幼い頃の彼だった。
「少しずつでいいわ、彼と自分自身に向き合って御覧なさいな。大丈夫、きっと素敵な事が起こるわ」
「……そう、でしょうか」
「それにね、クリスもきっと喜ぶわよ。貴女にいい人が出来たと知ったら……ふふっ」
「…って、喜ぶ筈ないですよ!さっきも言いましたよね!?私のそのお相手は―――…」
私が顔色を変えて先の言葉を紡ぐよりも早く、ドタバタと最早聞き慣れた騒々しい音が家に響き渡った。
私とアンナ様はぴたりとその動きを止めると、あと数秒で蹴り破る勢いで開かれるであろうキッチンの扉に視線を寄せる。
―――…バアンッ!!
「た……ただいま帰りましたお母様ッ!!シンデレラは……ああっ、やっぱりここに居た!!」
「お帰りなさいクリス。お隣さんにも響き渡るような帰宅時の騒音は抑えなさいって何度言えば分かってもらえるのかしらね?」
「何?私に何か用事?」
先ほどまでアンナ様と話していた事も忘れるほどに当たり前の日常の1コマに、私は身体の力が抜けるようだった。
しかし予想に反して、いつもならとっくに炸裂しているはずの彼女のマシンガントークが放たれる事なく、私は不審に思う。それはアンナ様も同じだったようで2人で目配せをしながら、いまだに肩で息をしているクリスの言葉を待った。
「シ、シンデレラ……貴女、一体何をしてくれちゃったのよ……?」
「はい?」
「もう!!とにかくどこかに隠れて!!早く!!まったく村の人たちも皆のんびり屋さんばっかりなんだから!!」
「な…っ、なになになに!?一体何があったって、」
―――…ピーンポーン…
グイグイと私の身体を地下書庫に続く扉へ押しやろうとしていたクリスだったが、インターフォンの音を聞いた途端ビクッ!とその肩を大きく竦ませた。
全く事情がつかめない私は、とりあえず来客を迎えるべくその足を玄関に向ける。予定に聞かない客人を最初に出迎えるのは、召使である私の役目だ。
そして私がガチャリ、とドアノブを回すのと、「シン…っ、開けちゃ駄目!!」という親友の叫び声が届いたのは、ほぼ同時の事だった。
「失礼。こちらアンナさんの……いや、シンデレラさんのお宅ですか?」
ドアの外にいたのは、国の重役のみが纏う事の許される、赤と金の刺繍が施された黒のマント。
役人直々の訪問とその重々しいその身なりに、私は身体が一瞬強張る。
でも……何故だろう、この身なりに声色。
どこかで聞いた覚えがあって。
「シンデレラは私ですが……貴方は、」
「馬鹿ッ!!何正直に名乗ってるのよ、こっち来て!!」
私の手首を勢い良く引いたクリスは、グルリと私の身体を背後に追い遣ると、目の前の男をギッ!と睨みつけた。
年下なのに、彼女の土壇場での行動力にはいつもながら目を見張ってしまう。
「一体何なのよ貴方!!村中で散々この子の事を聞いて回っていたそうじゃない!!年頃の女の子のプライバシーを何だと思ってるのよ、国家権力の乱用じゃないの!?」
「ああ。君はもしやクリスティーナさんで?貴女の事も、話は聞いていますよ」
「な…ッ」
まるで逆撫でするような男の発言と、それに反して垣間見えた爽やかな笑顔に、クリスが怒り心頭に何か言い返そうとした―――…その瞬間だった。
この村に似つかわしくない轟音が、一直線にこの家に向かってくるのが分かる。
そして10秒もしないうちにどでかい馬車が家の前に止まり、中から慌しく出てきたのは―――…
「み……みつけたっ!!もーっ、ダイヤってば!俺が行くまで待っててって言ったのに!!」
「あ、貴方は…!」
昨夜から焼き付いて離れない―――…温かな金色。
こめかみに汗を滲ませたままの彼は、ふわふわと黄金の癖っ毛をなびかせながらこちらに駆け出してくる。
そしてダイヤと呼ばれた男性に文句を言うや否や、他の2名には目もくれずに私の両手をぎゅうっと握り締めた。
思い掛けない人物の登場に、私は目を見開く。
「あ~…良かった。また10年も逢えないのかと思ったよぉ…」
「ど、どうしてここが……いくら小さな村とはいえ、」
「へへっ、こ~れ!君の落し物でしょ?」
「あ…っ!」
無邪気な笑顔の前に現れたもの―――…それは私の大切な、形見の万年筆。
あの時は逃げるので頭が一杯で、その後も彼の事で頭が一杯で……でも私とした事がお昼になっても気が付かなかったなんて。
「村の人にね、この万年筆の持ち主を聞いて回ったんだ。そしたら皆口を揃えて“それならアンナさんとこのシンデレラの物だ”って!本当は君の口から聞きたかったけれど……君の名前も知る事が出来た」
「あ……」
「どうぞお受け取り下さい―――…“シンデレラ”さん」
名前を呼ばれる事が、こんなに嬉しかった事が今までにあっただろうか。
満面の笑顔で差し出す彼から受け取ったそれは……もしかしたら、天国の母上が後押しをしてくれたのかもしれない。これが、最後のチャンスだよと。
自分の気持ちから、逃げないでと。
「……シンデレラ?貴女、この御方と……ルイス王子とお知り合いなのッ!?」
「ぐえっ!!」
視界がグルリと反転したかと思うと、首元をクリスがガッシリと掴み上げ、ガクガクガクガクと無限ループで私の身体を揺す振ってくる。
興奮冷めやらぬ親友は顔を真っ赤にしている……当然か。長年想いを寄せた人物が突然自宅に現れたのだから。
目の前で「わーわーっ!!」と慌てふためく親友を見詰めた私は、ぐら付く足元にグッと力を込めると真っ直ぐに彼女に向き直った。
私の大切な親友。今だって、自分を盾にしてまで私を庇って。だからこそ。
―――…ちゃんと話そう。クリスに、私の想いを。
そう決意した私は胸倉を掴んだ彼女の手を何とかどかすと、小さく深呼吸をした。
「あのね、クリス。私……この方とは昨日お逢いして、」
「昨日って、ひょっとして舞踏会の時間帯?ああ~なるほど、だからルイス王子がいない!!って皆探し回っていたのね!」
「あ、うん、それで……」
「それでなに、もしかしてあんた、ルイス王子と!?水臭っ!!油臭っ!!」
「ちょ、クリス」
「そんなビッグニュース何で報告してくれないかな~私たち親友でしょ!?……あ、ルイス王子、この子ってば口は若干悪いですけど人一倍優しい子なんですよ!」
「……オイコラ」
「不束者ではありますがこの子をどうか宜しく、」
「ちょっと待てェェェ!!」
私の大絶叫に、目の前の3名はポカンと目を丸くした。何だその顔、驚くのはこっちだから。
どうしてクリスが私と彼の仲を取り持とうとするわけ。お得意の強がりか?それにしては動揺の色が皆無っていうのは可笑し過ぎる、彼女は嘘が下手なのだから。
「何よシンデレラ、恥ずかしがらなくても良いって!私だって散々恋の相談してきたんだし応援するからさ!」
「だーかーらっ!!クリスの好きな人って誰だったのよ、この人でしょ!?王子様!!何で私よりも嬉しそうにして、」
「ルイスにダイヤさん―――…2人揃って、仕事ほったらかしで何してるんだ…?」
混乱が怒りに変化したらしい私は考え付くままに疑問をぶつけていたが、不意に耳に届いた落ち着きを払った男性の声にピタッとその動きを止めた。
反対に、目の前の彼とダイヤさんは「ヒッ!!」と同時に肩をビクつかせると、まるでお化けでも見るかのようにそろ~っと背後に視線を向ける。
そして、クリスは―――…
「ヨ、ヨ……」
「ヨ?」
「ヨークシャー王子様…っ!!」
「―――…へ?」
その名を口にした途端、その顔をボフッと湯気が出るほど真っ赤に染め上げたクリスに、私はすっとんきょうな声を零すも、意に介しない様子で2人は話を続けた。
「クリスティーナ。昨夜は随分世話になってしまったな」
「いいえ!!滅相もございませんヨークシャー王子!!偶然あの場に居合わせたのが私だっただけですので本当に……っ」
「だが、俺の顔色の悪さにいち早く気付いてくれたのは君だった」
「そ、それは……」
サラサラの黒髪に白い肌。
顔を真っ赤にしながらわたわたと受け答えをするクリスに、大人びた優しい笑みを零すその青年は、自らの白馬から降り立つとその長身はルイス王子と同じくらいスラリと高い。
……んん?何だこれ、理解できないんですけども。
私は目の前に立つ“王子”と呼ばれた2人を交互に見比べながら目を点にしていた。
「この国にはね、王子は2人いるのよ、シンデレラ」
「はい?」
「貴女は基本引き篭もりのインドア派だったからそういった情報には疎かったんでしょうね。昨晩妃選びの舞踏会を催されたのが今いらっしゃった兄君のヨークシャー王子。その弟君がそこで顔を青くしているルイス王子ね」
「酷い事を笑顔でサラリと言いましたね、アンナ様」
いつの間にやら背後に立っていたアンナ様。その表情からはいつに増して事の行く末を面白がっているのが窺える。だって肩が小さく震えているもの。
そして、そんなアンナ様の視線の先ではちょこんと正座しているルイス王子とダイヤさんに、ヨークシャー王子は腕を組んで仁王立ちをしていた。
……美しい黒髪の隙間から覗く表情は、最早先ほどの爽やか100%の彼とは別人格である。
「あ……あは。ヨークシャー、こんな所で遭うなんて奇遇だねっ、さすが俺達ってば仲良し兄弟!!」
「そ、そうだなウン!!こりゃ王家に代々伝わるシンパシーが働いたのかも、」
「寝言は寝て言えこの馬鹿弟が!!そしてダイヤさん!!あんた仮にもこいつのお目付け役だろ、何一緒に遊び回ってんだ、ああ!?」
「「キャ―――ッ!!ごめんなさいぃぃ!!」」
同時にひれ伏す2人の姿に、私はポカンと固まる。
クリスはというと、いまだ厚手の恋愛フィルターが掛かっているらしく、恋する乙女の顔のまま「…ったく、お前等がこれだから仕事もろくに進みやしねぇ…」と零すヨークシャー王子の元へおずおず足を進めていた。
「あ、あの、ヨークシャー王子……」
「ウチの馬鹿2匹が君のお宅に迷惑を……すまなかった」
「い、いいえ!あの、もし宜しければこれを…!!先ほど本当に偶然薬屋さんの前を通りまして!これを飲めば二日酔いが緩和されるらしいので、もしお役に立てれば……!!」
「……俺の為に?」
「は、はいっ!!そのっ、無理にとは……」
「いや……嬉しいよ、クリスティーナ」
「ほ、本当ですか…!」
………。
「……何だアレ。むっちゃフワフワしてるんですけど。私達の事完全に忘れてるんですけどあの2人」
「今は大目に見なさいな。それに……貴女は自分の王子様の事を忘れているんじゃないかしら、シンデレラ?」
「―――…あ。」
アンナ様のその指摘に私は慌てて視線を下に向ける。するとそこにはいまだにヨークシャー王子にビクついた視線を送るルイス王子。
まるで叱られた子犬のようなその様子に、私はふっと愛しさがこみ上げてきて……そのキラキラ綺麗な癖っ毛にそっと指を通した。
「シ……シンデレラさん…?」
「シンデレラで良いです、ルイス王子」
「…っ、シ、シンデレラっ!!俺……」
顔を真っ赤にしながらもしっかりと伝えようとしてくれる、彼の強い眼差し。
「昨日言った事、全部全部、本気です!!」
その揺るぎなさは、臆病な私の手をいとも容易く……引いてくれるようで。
そう叫んで視線を合わせていた私の両手をガシッと掴む。目の前の彼からは、迷いや陰りは一切感じない。
それは卑屈に生きてきた私にはあまりに眩し過ぎて、思わず顔を背けたくなるけれど……でも。
―――…私だって、応えたい。
「わ……私がっ!」
「え?」
「私が貴方の……ルイスの隣にいる事の出来るくらい、」
「―――…!」
「勇気と自信を持てる……その時まで…っ!」
大きく見開かれる彼の瞳。
その綺麗な瞳に映り込む……私の姿が、見えた。
「待っていて……くれますか…?」
身体中に、心臓の鼓動を感じる。
震えつつも言い切った私の精一杯の返答に、彼は一瞬泣きそうな表情を見せると、すぐさま私の身体を腕の中に閉じ込めた。
ぎゅうっと、痛いほどに、強く。その苦しささえも愛しい。
これが、恋なんだ。
怖がる必要なんて無かったんだ。だってこんなに胸が温かいもの。
その心地良さに私は無意識に腕を彼の背に回そうとしたが、不意に開いた目蓋の向こうからの視線に、ピタッ!とその動きを止めた。
「探し回った甲斐があったなぁ~ルイス!まぁ“ダイヤもどうせ暇なんだから一緒に探して!!”なんて言われた日にゃー殴ってやろうかと思ったけどな!」
「……ああ。じゃあ金髪がコンプレックスだったあの馬鹿を立ち直らせたという初恋の少女が、そこにいる彼女なのか」
「馬鹿は余計ッ!だって父上も母上もヨークシャーも黒髪なのに俺だけ仲間外れみたいじゃん!!」
「その短絡的な思考が馬鹿だって言ってんだ、この馬鹿犬」
ガバッとヨークシャー王子に向き直ると私を抱き締めたままキャンキャン非難するその姿。
まるで飼い主のように彼を諭すお兄さんとセットで見ていると……ああ。確かに犬かもしれない。
言いえて妙だと思いながらも、私はしばらくその元気な体温の中に閉じ込められたままだった。愛情という名の、その体温に。
「ふふ、ようやく殻が破られたようね?」
「全くよ。あんたはいい歳になっても婚活もしなさそうだもんね~」
「……2人とも…」
そして、目に留まったのはアンナ様とクリスの心底嬉しそうな笑顔。それを目の当たりにした私は、不意に……視界が滲むのを感じる。
気付いていたのに、気付いていなかった。こんなに私は愛されている事。
たとえ血が繋がらなくても、こんなに、温かく。
2人の想いに胸が温かくなるのを感じながら、私はようやく……もうひとつの決断をする事が出来た。
それは、ずっとずっと隠し続けていた―――…私の秘密。
「アンナ様……クリス、」
「なぁーによ?この幸せ者がっ!」
きっと、大丈夫。だって。
「夜になったら、ね。2人に……見てもらいたいものがあるんだ」
2人は私の―――…大切な、家族だから。
End