花に散る恋心
=「恋物語」美咲ver.=
薄紅色の花弁が舞う。
市役所職員として二度目の春がきた。
初めての後輩もでき、その手慣れない様子にほんのり心を和ませながら過ぎていった四月。
そんな新人のみんなを改めて歓迎する催し。それが本日開催の新歓花見会だ。
「美咲さんって~ズバリ!! 川口君のことが好きなんですか!?」
そして。
本日の主役である可愛い後輩たちからの質問は、何とも突拍子にないものだった。
「はは……もちろん、後輩としては好きだよ。うん」
「川口君」とは、恐らく今年うちに入った川口徹平君のことだろう。
同じ課の配属で話す機会も人より多いからかな。変な誤解をされたら川口君に悪い。
だからといって、はっきりきっぱり否定するのもそれはそれで失礼な気もするし……。
言葉尻を濁してしまっためか、「んもーっ! 美咲さんってば遠回しなんですからー!」と後輩の女子たちからは再びはやしたてる声が上がった。
せっかくの花見の席だ。賑やかな空気に水を差したくない。
うーむ。どうしたものか……。
「こらこら少女たち、変な憶測は止しなさい。美咲にはもう、心に決めた人がいるんだから」
ぷはーっ! と爽快な一気飲みのあと、淡々と紡がれた助け船。
「そうでしょっ、ミ・サ・キ!」
「ちょ……由美子っ!」
同僚の北岡由美子がするりと会話に加わる。
ほいと放り込まれたこの手の情報に、私を取り囲んでいた女の子たちは「ええー!! 本当ですかぁ!?」と一層色めきたった。
「そうなんですか~。まあ考えてみれば当たり前ですよねぇ。美咲さんってば本当素敵ですし!」
「なーんだ! それじゃあイケメン川口君は失れ……、」
「はいはい、要らないこと言わないのー」
やいやいと飛び交う感想にぽかんと口を開けているなか、「まぁ。でも」と由美子の声がゆったりと続く。
「確かに、私もちょっと気になってたんだよね。美咲ってば、何だかんだで川口のこと、妙に気にかけてるなーって」
「え」
「ですよねー! 北岡さんもそう思いますよね!」
「えええ」
「美咲さんが川口君を見つめる視線がこう、愛でるような感じ~みたいな!」
「えええええっ。嘘。私が? そうかなぁ!?」
由美子を含む数人の追求に、目を白黒させてしまう。
それでも、改めて考えると、確かに思い当たる節がないわけでもなかった。
驚きの表情から滲み上がったものは、懐かしさにほころぶ微笑み。
それは、川口君を初めて見たときから感じていたことだ。
「川口君は……初めて会ったときのルイ君に、なんだか似ていたんだよね」
綺麗な顔立ちにすらりと高い身長。薄い色彩の髪と瞳。
そして何より、初対面時にほのかに感じた緊張に強ばった顔。
もしかしたら、無意識のうちに面倒見が良くなってしまっていたのかも知れない。
まるで、ルイ君から容赦なく警戒されていた、大学二年の春に戻ったみたいで。
「最近のルイ君、大学でも家でも本当に大変そうで……いつも柔らかい笑顔も少し無理してるような気がしてて」
「へぇ。そうなの?」
由美子の相づちに、私も頷く。
「教育実習の前段階でピリピリしてるはずなのに、私たちの前ではそんなところも見せないようにって頑張ってて」
「ほぉ」
「そんなところが大好きなんだけどね。いつも何に対しても一生懸命で、瞳がキラキラしてて。私も頑張らなくちゃなぁって思っちゃう」
「……はぁ」
「でも時々不安になっちゃうよ。私ばかりルイ君から気を遣われて、肝心のルイ君の支えになってないんじゃないのかって」
「……」
「…………うん?」
あれ。今私、何を話してた?
いつの間にか遠くなっていた周囲の喧噪に、私は慌てて顔を上げる。
多くの視線が一挙に集結していることに、思わず肩が強ばった。
「美咲さん」
「は……はいっ?」
「──可愛いです。すっごく!!」
「…………はい?」
私の間抜けな返答に覆い被さるように、若い女の子達の歓声が一気に沸いた。
それはもう、花見の主役である桜の花弁も驚いてしまうほどで。
「まぁ、ノロケるのも仕方ないか」
そして──大盛り上がりのなかで投下された由美子の溜め息混じりの言葉に、さらに私はもみくちゃにされることになる。
「新婚ほやほやの年下旦那さんだもんね。『御崎』美咲さん?」
花に潜む嫉妬心
=「恋物語」陽輔ver.=
「美咲さんって本当、年上に見えないッスよねー」
薄紅色の花弁に目を細める。
最中、この場にはそぐわぬ胡乱な目付きで沈黙を保っていた人物が、ピクッと反応を見せる。
さすが。あの人専用アンテナはいまだ衰え知らずらしい。
「そうかぁ? あれで彼女もかなりしっかりしてるんだぜ。一年目から上からの評判も上々だったもんなぁ」
「しっかりしてるのはわかってますって! そうじゃなくってこう、背が小さ~くて愛らしいというか~。笑顔がホンワカで癒されるというかっ」
「なぁ! そう思うだろー、川口ぃ!!」
「……だからっ、なんでそこで俺に振るんだよ……!」
「おおっ、川口~お前、そうなのか!?」
「っ、だからー、そういうからかいは止めてくださいって……!」
「『川口』って……言ったね」
「言ったな」
「あれか……美咲さんに恋をしているという不届き者は……っ!!」
「あんま声張ると向こうにバレるぞ、馬鹿犬」
言いながら、俺は空きそうになっていたゲンさんの紙コップにビールを注ぐ。
好奇心を隠しきれない表情であちらさんを観察しているゲンさんも、「へーぇ。意外と真面目系だなぁ」とのんびり感想を述べた。
「美咲さんもやっぱり人一倍優しいからなぁー。慕う男が出てきても不思議じゃないよな~」
「真面目系でも許さん、チャラ男でも許さん!! 美咲さんってば本当、男に愛想振りまきすぎなんだからもー!!」
「……お前が女に愛想無さすぎなだけだろ」
最近ではまだ少しましになったと聞くこいつの女嫌い。
しかしながら今のこいつは、恋敵の出現で完璧に以前のこいつに戻っている。
花見会場に到着してから幾度となく声をかけられた見知らぬ女性陣からの誘い掛けを、すべて一睨みで一蹴していたほどだ。
「陽輔も忘れてんじゃないよねぇ! 今日はお花見じゃないの! 偵察なの偵察っ!」
「じゃ、俺とゲンさんの二人でお花見しますか」
「おー。かんぱーい!」
「あああああっ! ちょ……ずるい! 俺も混ぜてよぉ!」
今にも恋敵に噛みつきそうだった表情が、情けなく歪む。
紙コップを突き出してくるこいつに、俺は溜め息混じりに缶ビールの蓋を開けてやった。
「あー。思えばこうして三人で酒を囲んで飲み交わすなんてなぁ~何か嬉しいなぁゲンさんは!」
「そっかー。考えてみればゲンさんたちと酒を飲むのって今回が初めてだもんねー!」
「会うときはバスケするのが大半だからな」
三人三様の大学に進んだ俺らだが、今でもこうしてつながっている。
誰と示し合わせたわけでもなく続いているこの関係が何だかおかしい。
あれだな。「腐れ縁」ってやつか。
「っていうか、俺も外で酒の飲むの久しぶりかも! いつもは美咲さんに極力控えるようにって言われてるし」
「へぇ。美咲さんも意外と心配性なんだなー」
「でも今日はいいや! っていうか飲む! 飲んでやるー!」
気付けば自分で幸せそうに酌をしている馬鹿犬を横目に、俺は遠いブルーシートの一角を眺める。
盛り上がるひとつの円にいる美咲さんの笑顔も、随分と久しぶりだと気付く。
心なしか困ったような表情にも見えるが……それでも、職場でもちゃんと打ち解けているようだ。
「でもなぁ。文句言いつつも、結局ルイに付き合ってやるんだもんなぁ~陽輔も」
「たまたまバイトも部活もなかっただけッスよ。そういうゲンさんは。あの幼なじみとはどうなってんすか」
「……うへへへへ」
「あ。もういッス。話さなくても」
「ちょっとぉ!? ルイと美咲さんのノロケ話に付き合うくせに、俺に対してはその態度ってあんまりじゃ──、」
「……美咲さん……?」
それが誰の発した声なのか、俺は一瞬わからなかった。
◇◇◇
「見つけた。美咲さん」
薄紅色の花弁の中の甘やかな囁き。
いつもの飼い主に駆け寄る大型犬のような空気が一切なりを潜めていた。
目の前にいるのは、愛おしさをはらんだ落ち着いた口調で想い人を軽々腕に収める男。
「へ……ちょ、え!?」
「美咲さん」
「ル、ルイ、君……!? どうしてここに……っ」
唐突に背後から抱きすくめられて混乱していた美咲さんも、腕の主を知るや否や顔を真っ赤に染め上げる。
その光景に周囲の美咲さんの職場仲間はもちろん、俺とゲンさんまでもその場できょとんと目を丸くした。
冒頭のセリフもそうだ。
いつものあいつだったら、「美咲さんっ、みぃーつけた!!」だろ。
「陽輔」
「はあ」
「……誰? あれ」
「……はあ」
ゲンさんの呆けた質問に、俺自身も呆けた回答しか返せない。
おいおい。
一体どうしてこうなった。
「そっか。美咲さんもここでお花見だったっけ……」
「う、うん。そうなの。っていうかルイ君、ひとまずこの腕を──」
「ということは……ああ。もしかしてこの人たちが、美咲さんの職場の人たち?」
「……ルイ君、もしかしてお酒……っ、」
言いかけた美咲さんの口を、いともたやすく右手で塞ぐ。
そしてルイは、周囲からの視線にひとつひとつ愛想の良い笑顔で応えながら、ある一点でその動きを止めた。
美咲さんに好意を寄せているとおぼしき──『川口君』が目を剥いている方向で。
「はじめまして。美咲の夫の御崎ルイです」
にこり、と。
嫌みなくらい輝く微笑みを浮かべる。
「……誰? あれ」再び横から届けられた問いが、もはや遠くに聞こえた。
「え……えっ。じゃあ、美咲さんの……旦那さん!?」
「はい。うちの美咲がいつもお世話になっています」
「きゃーっ! すっごい偶然ですねぇ!」
「っていうか美咲さんの旦那さん、すごい格好良いじゃないですかーっ!」
きゃあっと旋風でも巻き上げたような歓声が上がる。
それにニコニコしながら相づちを返すルイの腕の中で、美咲さんはいまだにわぷわぷ口を封じられている。
それに、美咲さんがさっき言いかけた言葉……。
ああ、なるほど。
「ゲンさん」
「……おう」
「そういえばルイの奴、さっき言ってましたよね」
「ああ……言ってたなぁ」
『俺も外で酒の飲むの久しぶりかも! いつもは美咲さんに極力控えるようにって言われてるし』
その理由が──「これ」か。
「……ルイ。もうその辺にしとけ」
「うん?」
「……ぷはっ! あ、あれ。陽輔君!? 大樹君まで……!」
「はは。お久しぶりです、美咲さん……」
ついで顔を見せ始めた俺たちに、美咲さんはますます目を白黒させる。
それも当然か。今日ここに俺たちも来ることを、ルイは美咲さんに知らせていなかった。
美咲さんを狙う不埒な輩が彼女の職場にいるらしい──そんな、今更感バリバリな情報を得てしまった馬鹿犬の頼みで。
「きゃあっ、ちょ、格好良い!!」
「イケメン勢ぞろい! もしかしてこの二人も、美咲さんの知り合いですかぁ!?」
美咲さんの口が解放されたこともあり、ここぞとばかりに追求の憂き目にあってしまう美咲さん。
それでも、再びその首もとに巻き付いた長い腕に、再び外野の賑わいは浮ついた静寂に変わっていった。
「そうそう。俺たちも、陽輔とゲンさんと花見に来てたんだ。つい声をかけちゃった。美咲さんが、あんまり可愛い顔してるから」
「あ、え、えっと」
「邪魔してごめんね。それじゃあ、これで」
薄紅色の花弁を思わせる、柔らかな笑顔。
いつもの奴とは違い、物わかりの良いセリフに俺もゲンさんも安堵の空気に包まれた。
──それがいけなかった。
「っ、ルイく──……っ」
続いて、飲み込まれるように途切れた美咲さんの声。
辺りに突如沸き上がった、甘くも緊迫する空気。
そして……バードキスとはとても形容しがたい、深く長い口付けを愛しの妻に贈る、馬鹿犬の姿に。
「……結局ただの発情犬じゃねぇか、この馬鹿が──!!!」
「きゃいんっ!!」
穏やかな花見の席にふさわしくない罵声が、公園一帯にこだました。
花を愛でる恋心
=「恋物語」ルイver.=
「お疲れさま。ルイ君」
背後から掛けられた労りの声に、ガバリと瞬時に振り返る。
そして、声の主を目にして、落胆を浮かべてしまうのは仕方なかった。
「ココアをどうぞ。私もコーヒーが欲しかったから、そのついでに」
「……ありがとうございます。美智さん」
「ふは。美咲かと思った?」
「……ううう。美智さ~ん……」
美咲さんのお母さんである美智さん。
歯に衣着せないその言葉は、まさに図星だった。
へなりと顔が歪んだのがわかる。
そんな俺にどこか嬉しそうな顔をしながら、「まあ、飲めよルイ君や」とまるで飲み屋のおやっさんのようにマグカップを差し出してくれた美智さん。
なかなか進んでくれないレポートを横に退け、俺はゆらゆら揺れるココアの湯気に目を据えた。
湯気の向こう側には、今にも美咲さんの笑顔が見える気がした。
「まあ、あんなにヘソを曲げる美咲も珍しいけどねー。ルイ君もなかなかしくじったわねぇ。美咲の前でお酒を飲んじゃったんだって?」
「うう……何度も謝ったんだけど、美咲さん、話も聞きたくないみたいで……」
こんなことになると知っているなら、数日前の桜の下にいた自分を殴ってでも止めたのに。
陽輔とゲンさんを連れて美咲さんの花見の偵察に出かけたあの日。俺は心配と焦りと怒りと嫉妬で、心の中がごちゃごちゃになっていた。
そんな中、勢いに任せてビールを摂取して、気が付いたら陽輔が運転する車の中だった(陽輔は酒を飲んでない)。
『お前もあそこまで酒癖が悪いとはな……この迷惑犬が』
『酒癖っていうかなぁ……あれはもう完全に人格が変わってたよな~。人前でいちゃつくのは相変わらずだったけど』
『ね……ねぇ、陽輔、ゲンさん。その……美咲さん、怒ってた……?』
車の揺れに頭を痛めながらも、俺は恐る恐る問いかけないわけにはいかなくて。
『周りの人に質問責めで揉みくちゃにされてた。お前のせいだな。可哀想に』
『顔を真っ赤にして、いっぱいいっぱいで涙目だったもんなぁ……可哀想に』
『…………!!!』
一体何があったのか二人から聞き出した説明に──俺は顔面蒼白になっていたと思う。
「はははっ! まー家で初めてルイ君がお酒を口にしたときも、目を見張るくらいフェロモンだだ漏れのセクハラ魔神になっていたもんねー」
「セ、セクハラ魔神……っ!」
「でもなぁ~、職場の人の前で恥ずかしい思いをしたってことで、美咲がここまで意地を張るとも思えないんだけどねぇ……」
あっけらかんと言葉を進める美智さんにガーンと衝撃を受ける。
しかしながら、聞き捨てならな情報も耳にした気がした俺は「え」と我に返った。
「み、美智さんっ! それって、どういう……」
「おっとー。私ってばついベラベラと話すぎちゃったかしら?」
引き留めようとする俺を後目に、美智さんはコーヒーカップを片手に俺の部屋を後にした。
「早く仲直りしなさいよ? 夫婦喧嘩は犬も喰わないからね」
◇◇◇
今夜は美智さんは出張で、達っちゃんは夜まで仕事の日のはずだ。
「み、美咲さん……?」
意を決して美咲さんの部屋の扉に声をかける。
玄関には靴が置いてあったし、他のどこにも美咲さんの姿はなかったから。
「美咲さん……あ、あの」
「……」
「俺……もう一度ちゃんと、謝りたくて」
「……」
部屋の中からは、気配はするものの声が聞こえない。
ここまで拒絶されることは今までになかった。
美咲さんがここまで頑なになるなんてほとんど経験がなかった俺は、ただただ困惑に立ち尽くす。
(でも……それは全部、俺のせいで)
扉に付いていた手を、ぐっと結ぶ。
安易に美咲さんとの約束を破った自分が腹立たしい。
きっと、自分の中にはいつも馬鹿な過信があったんだと思う。どんな自分であっても美咲さんは離れていかないと。
そんな都合のいい話、あるはずがないのに。
「──っ、美咲さん! 本当に、ごめんなさいっ!!」
耳に響くような大声を上げて、俺は扉前の廊下に膝を付いた。
勢い余って扉に頭をぶつけたが、そんなことはどうでも良い。
俺は床に手を付いて、躊躇なく頭を下げた。
「もう、絶対に美咲さんとの約束を破ったりしない! 美咲さんに嫌な思いをさせたりもしないっ!」
「……」
「今度こそ……絶対に約束するから……だ、だから……」
「──……ルイ君」
キィ、と短い音が鳴る。
続いて頭上で小さく息を飲む音がしたが、俺はそれ以上に息を吸い込んだ。
「……っっ、美咲さぁ~ん!!」
「きゃあっ!」
数日ぶりに目にした感情を乗せた美咲さんの表情に、気が付けば俺は勢いよく飛びついていた。
◇◇◇
所変わって、俺と美咲さんは部屋の中央に座っていた。
美咲さんがお盆からマグカップを差し出す。
久しぶりの美咲さんのココアの薫りに、俺は心がじわりと満たされていくのを感じた。
思わず顔を綻ばせていた俺に、美咲さんは困ったようにはにかんで見せる。
「その……ごめんね、ルイ君。私ってば、変に意地を張っちゃって……」
「な、なんで美咲さんが謝るの! 悪いのは俺の方なのに……っ!」
口に運びかけたココアをとどめ、俺はとっさに声を張った。
そんな俺に、美咲さんは少しの沈黙の後で首を横に振る。
「約束のことは、半分仕方ないって思ってるんだ。ルイ君、酔っぱらったときのこと全然覚えてないみたいだったから……お酒を飲んじゃ駄目って言う理由も、もっとちゃんと説明しておけば良かったんだよね」
眉を下げて向けられる美咲さんの笑顔が綺麗で、胸が高鳴る。
頬に集まる熱を払うように、俺は首を高速で横に振った。
「だからね。お酒のことはそこまで怒っていなかったの。ただ、その……」
「……え?」
「──ルイ君が、あんなに格好良い姿、みんなに見せたりしちゃうから……」
花の放つ甘い罠
=「ウオノメにキス」透馬ver.=
もしかしなくても今の俺は、ウェイター人生で一番の時間をひとりに割いている。
「それでっ! その後はも~振るい付きたくなるくらい可愛い顔をしながら話してくれたんッスよぉ~!」
犬みたいだな、と思った。
キョロキョロと辺りを見渡しながら店に入ってきた整った面立ちが、思いの外あどけない表情で駆け寄ってきた、その時に。
「そうなんですか。それで、彼女さんはなんて?」
「彼女じゃないですっ! お嫁さん! なんかね~、俺がお酒を飲むとすっごい大人びた感じになるらしいんスよねぇ。その調子で、他の女の人にも甘~い空気を出されたくなくって──……って、も~~~っ!!」
日頃からお客人と会話を交わすのは不思議でも何でもない。
しかしながら、ここまで若い兄ちゃんと話し込むことになるなんざ、今考えてみれば初めてのことだった。
正味三時間、俺はこの大型犬のノロケ話にひたすら付き合っている。
ぶんぶんと元気よく振られるシッポの幻想に、短く笑いをかみ殺した。
本物のゴールデンレトリバーの「ゴン」は、大人しく窓の向こうを眺め哀愁に耽っているというのに。
この店の看板犬よりも、下手したら犬らしいかも知れない。
「さすがに酔っぱらってても美咲さん以外の人に手を出すなんてあるはずがないし! っていうかー、他の女なんて美咲さんと比べたら月とスッポンだしっ!」
「ははっ、そりゃーまた、来週末に彼女とお会いするのが待ちきれないなぁ。ね、栄二さん」
「ええ。光栄なことです」
厨房に声掛けした俺に、栄二さんは目を細めながら応えた。
大学生だというこの少年がこのカフェ・ごんざれすに来た理由。
それはまさに、話の渦中の「美咲さん」と来るための下見だそうだ。
今回の痴話喧嘩のお詫びも兼ね、来週末に「美咲さん」が行きたがっていたところを巡るデートを企画したらしい。
「ん~っ、飲み物もお菓子も美味しい~っ!」ひとりでも賑やかに感想を口にするお客人を眺めていた俺の横に、いつの間にか栄二さんもやってきた。「そうだ。お客様」
「宜しければ貴方様からも、コイツに何か言ってやってくれませんか。本命の女が相手になった途端、臆病風に吹かれているこの馬鹿に」
「ちょ……っ、栄二さん、何……!!」
「え。何それ何それ。もしかしてウェイターのお兄さんも、大切な人が居るってことっ?」
気紛れな栄二さんの暴露に、俺はとっさに店内を見渡す。
幸い、先ほどまでこちらを微笑ましげに眺めていた女性客三名も、今はすでに内輪話で盛り上がっているようだった。
自分の安堵の溜め息に、栄二さんの吐いた溜め息が重なる。
「……何でそこで栄二さんも溜め息を吐きますかね……?」
「お前に何か粗相があれば身元引受人の俺の責任でもあるからな。杏さんに申し訳が立たない」
二十八歳の社会人に身元引受人も何もないだろ。
突っ込みたい気持ちは山々だったが、結局俺はそそくさと前に向き直った。キラリと煌めく笑顔の奥におどろおどろしい気配がはっきり見える。
だてに長年身元を引き受けられていたわけではない。
「へへっ、でも俺も失敗してばっかだったからなぁ。美咲さんはいつも優しくて温かいから、いつも甘えてばっかりで」
柔らかく頬を緩ませる少年に、はっと息を飲む。
幸せ、と。
素直に顔に滲んだ笑顔。
杏ちゃんのそんな表情を見たのだって、最後は一体いつだったろう。……というか、一回だってあったっけ?
いつも気を遣わせてばっかで、怒らせてばっかで。
(いいからっ! 締め切り明けなんだから、青い顔して外出てこないで、次回作に向けてゆっくり休んでなさいってーの!)
……いつだって、こちらが甘えてばかりだ。
◇◇◇
(すき)
杏ちゃんと想いを通じることができたは、去年の夏だった。
奇跡のようなあの日から季節は瞬く間に移ろい、気付けばまた、この北の地にも温かな日差しが降り注ぐ。
そして、杏ちゃんと俺の関係はと言えば──。
「……自分でも分かってるんだけどねぇ……」
「ん? 何?」
「いやいや、ちょっと考え事?」
「あ、そ」短く紡がれた素っ気ない返答に、俺は密かに苦笑する。
それでも、助手席に座るその横顔はどこまでも綺麗だ。
何の気なしの振りをして盗み見る彼女は、癖ひとつないロングヘアを耳にかけ、再び読書に浸っている。
綺麗で──だから、汚したくない。
(今までひたすら女遊びに勤しんでいたスケコマシが。片腹痛いな)
だから、それは分かってるんですって栄二さん。
(ああ~、でも分かる! 俺も美咲さんと初めての時はスッゲー緊張したもん!!)
だよなぁ~同意してくれてありがとう。でも俺からしたら君も十分綺麗だからね。お客さん。
栄二さんの言ったとおりだ。俺のような奴が今更こんな考え、どうかしてる。
女を抱くのが怖い、なんて。
親の援助もなく家を出て以降、生きることだけにがむしゃらだった。
その延長で身につけてきたものは、夜の街でのただれた生き方。
しかしながらそれも、生活の安定した今となっては何の言い訳にもならない。
そんな自責の念とともに、胸の中で独りごちるのはいつものフレーズ。
杏ちゃんは──俺のどこを、好いてくれたのだろう?
「それにしても、随分長いこと運転してるね……って、え。今の看板……旭川?」
外面。長身。職業……それとも、小説とか?
「ちょっと。一体どこに行く気で――、」
そろそろ……後悔し始めている頃、だったりして……。
「透馬?」
「ははっ、うん。ごめんね。もうそろそろだから」
「……ねぇ、次のパーキングエリア寄っていって。お手洗い」
「はいはーい」
空を切るように高速を飛ばす車を車線変更する。
あっさりと調子の言い声を出す自分がおかしくて、情けなかった。
◇◇◇
高速を下り、ようやく目的地の駐車場に車を入れた。
目立った建物も灯りもない。
辺りに生い茂る木々たちも、日が落ちかけた今となっては隙間の多い黒の塊にしか見えないだろう。
札幌からの道すがら、何度も問われた行き先を俺は同じ回数はぐらかし続けた。
「何を考えてるの」
だからだろうか。
杏ちゃんの声色が、普段よりも硬く、低く聞こえるのは。
「あんたらしくないじゃない。いつもなら、お膳立てばっちりのデートプランを立てるくせに」
「うん。そうだね」
「……街灯もないし。もう日も暮れてるよ」
覇気のない俺の答えが癇に障ったのか、杏ちゃんはじいっとこちらの真意を探ろうとする。
そんな表情すら可愛いなんて思えてしまうこと、杏ちゃんはきっと知らない。
「……予定通り。って言ったら?」
「は?」
「こっちこっち」
「っ、ちょ、なに……っ!」
駐車場の横に続く、うっそうとした草を無理矢理かき分けたような小道。
その細道を、俺は杏ちゃんの手首を引いてひたすら進んでいった。
ちらりと視界にかすめた困惑した表情。
細く、柔らかい手首。
まるで初恋に身を焦がされるガキのように、顔が緩んで止まらない。
ねえ、知らないでしょ杏ちゃん。
杏ちゃんと想いが通じたあの時。
本当に奇跡だと思ったんだ。
三年前に初めて杏ちゃんと出逢ったあの時から続いている、奇跡のような夢だと。
「はい。到着~」
「……? ここは……何? 公園?」
ますます自然の息吹が深まった辺りを、杏ちゃんはキョロキョロ見渡す。その隙を見て、俺はさっとスマホで時刻を確認した。
よかった。あと、三十秒。
「ほら。池に月が映り込んでるよ。暗がりだけど野原が開けてて、気持ちいいねぇ」
「……満月だったら、なお良かったかもね」
「ははっ、杏ちゃんってば厳しい」
「──それで?」
くるり、とこちらに振り返る。
余りに真っ直ぐな視線に、一瞬息を飲んだ。
「こんなに遠くの、暗闇はびこる公園で。透馬クンは一体何を話すつもりなのかしら」
「え、ええっと……」
「……こんなところにでも来なくちゃ、言い辛いこと?」
え、と口に出来ないまま、愛しい人に目を凝らす。
聡い彼女は気付いていた。
俺が胸に抱く、陰鬱な不安の気配を。
「杏ちゃん」
「……っ」
「杏ちゃん……見て」
言いながら空を仰いだ。
瞬間、辺りを立ちこめた眩しさに、彼女は小さく瞼を伏せる。
そして次の瞬間辺りに広がった光景に、大きく息を飲む気配がした。
「す、ご……っ、夜桜……!?」
感動に素直な歓声が、辺りに静かにこだました。
夕暮れと入れ替わりにライトアップされた、薄紅色の桜たち。
暗闇に突如浮かび上がった色彩は至極幻想的で、今にも夜空に羽ばたいていきそうだ。
最中、隣からの感嘆の吐息を聴きつけ、俺はそっと視線を彼女に向けた。
クールで、スマートで、少し取っつきにくい。
そんな印象を持たれることが多い彼女が、煌めく感動に瞳を揺らす。
その姿を見るのが、俺は好きだった。
「すごいでしょ。気に入った?」
「ねぇ透馬っ! あそこ! あそこが一番桜が満開で──、」
ずっとずっと、この想いは変わらない。
「あのさ、杏ちゃん」
だからこそ……いつまでも、清いままの男ではいられないんだ。
「今夜──このまま、一泊していかない……?」
あの少年の話を耳にしたあとすぐに、次のデートの日に間に合う桜の名所を調べあげた。
杏ちゃんの笑顔が見たかったから。それはもちろん本心だ。
でも、それ以前に──。
(彼女さんはどっちでもいいんだと思うけどなぁ。格好良いお兄さんでも、そうでないお兄さんでも、どっちでも)
あの、無垢な犬のような少年の言葉に、背を押されて。
(だって、お兄さんだってそうでしょ?)
「……」
「……」
顔が、燃えるみたいに熱い。
辺りがライトアップされているこの状況で、自分の顔色もバレバレだろう。この際それでも構わない。
目を大きく見開いたまま、杏ちゃんは沈黙している。
しかしながら、夜風に舞う桜の花弁が、互いの時間をゆっくりと動かし始めるのが分かった。
「……なるほど」
ようやく聞き取れた杏ちゃんの声に、面白いくらいに肩が揺れる。
「何か様子がおかしいと思っていたけど。遠出の理由はそれか。ふうん」
「い、いやっ! 夜桜は杏ちゃんがきっと喜ぶと思ったからで、別に無理強いはしないし……!」
「……その気が、ないのかと思ってたのに」
「え?」思わず間抜けな言葉が口から漏れる。
同時に、小さな拳が鳩尾に弱く押し当てられた。
自分を見上げる潤みを帯びた瞳に、胸が苦しくなる。
愛おしさが、身体一杯にこみ上げて。
「遅いよ。……馬鹿透馬」
恥じらいをはらんだ「YES」の返答に、俺は無心で彼女を掻き抱いた。
=end=
(あとがき)
「春のおとずれSS」、ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
これからより色濃くなっていく季節を、皆さまと共にできればと思いつづらせて頂きました(´▽`*)
また、その後の彼らも折を見て追っていきたいと考えております。
それでは、皆さまに良い春の日が訪れますように。
森原すみれ